何かしら心の安定を失っていたときと見た方がよかろう。でなければ、いかに仲に立った人が適当の処分をし、よく斡旋《あっせん》したからとて、抱月氏の死後、彼女が未亡人や遺孤《いこ》に対して七千円を分割し、買入れた墓地まで、心よく島村家の人たちに渡してしまうはずはない。
「私もこの墓地へはいるのだから」
彼女は墓地の相談のときにこういっていたそうである。島村家へ渡したといっても、自分が買って、大切な先生の遺骨《ほね》を埋めたところゆえ、自分のものだという心持ちでいたのであろう。それでも不安心なところもあったかして、その隣地の背面の空地《あきち》を買っておこうと呟《つぶ》やいていた。けれど誰れがそのおり須磨子の心のどん底に、死ぬことを考えてもいたと思いつく道理はなかった。
抱月氏は須磨子のために全部を奪われてしまっているものだとさえ思われたが、ある興行師は須磨子にむかって、
「も一儲《ひともう》けするのなら、抱月さんと別れて見せることだ。人気が湧《わ》けば金もはいる」
といったとやら。金、金、金……利殖よりほか楽しみのないもののようにいわれた彼女が、女優生活の十年に残しえた三万円を捨ててかえり見ず、縊《くび》れ死んでしまって、そういう人たちに唖然《あぜん》とさせたのは痛快なことではないか。
「死んだときいたら、嫌だったことはさらりと消えてしまって、ほんとに好い感情を持つことが出来た。何だかこう、昨夕《ゆうべ》まで濁っていた沼の面《おも》が、今朝《けさ》起きて見ると、すっかりと澄みわたっているので、夢ではないかと思うような気がする。僕はそんな心持ちがするといったら、N氏もほんとにそうだ、私もそういう気持ちがしたと言った」
と抱月氏とも須磨子とも交りのふかかったA氏が話された。そのおりに言葉のつづきで、
「あの人は死によって、あの人の生活を清浄なものにした」
「あの人のぐらい自然な感じのする死はない」
「僕はもうすこしあの人を親切にしてやればよかった」
讃美と感激ののち、沈黙がつづいたはてに、突然ある人が、
「しかし、松井君は随分憎らしかったね」
と言出すと、その一言《ひとこと》でその座の沈黙が破れて、その言葉に批判があたえられずに、
「そうだ。やっぱり憎らしい人だったね」
と前の讃美とおなじように連発された。その二つの、まるで異《ちが》った意味の言葉は、一致しそうもない事でありながら、松井須磨子の場合には不思議に一致して、
(立派な死方《しにかた》をした、しかし随分憎らしい記憶をおいていってくれた人だ)
これが須磨子を知っている人の殆《ほと》んどが抱《いだ》いた感じではなかったろうか、この偶然の言葉が須磨子の全生涯を批評しているようだといわれた。
あの人は怒っているか笑っているか、どっちかに片附いている人だったが、泣くということがふえて、死ぬ前などは、怒っているか、笑っているか、泣いているかした。
「先生と私との間は仕事と恋愛が一緒になったから、あんなに強かったのよ」
といい、
「私がほんとうに家庭生活というものを知ったのはこの二、三年のことですよ、先生もほんとに愉快そうですわ」
といったりした彼女が、泣虫になったのはあたり前である。むしろ笑いが残っていたのが怪しいほどだ。
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恋人と緑の朝の土になり
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と川柳久良岐《せんりゅうくらき》氏は弔した。「緑の朝」は伊太利《イタリー》の劇作者ダヌンチオの作で「秋夕夢」と姉妹篇であるのを、小山内薫《おさないかおる》氏が訳されたものである。どうしたことかこの「緑の朝」には種々の出来ごとがついて廻った。最初去年の夏、帝劇で市村座連の出しものであったとき、劇評家と、狂主人公に扮した尾上《おのえ》菊五郎との間に、何か言葉のゆきちがいから面白くないことが出来て、菊五郎の芝居は見るの見ぬのとの紛紜《いざこざ》があった。小山内氏は訳者という関係ばかりではなく、市村座の演劇顧問という位置からしても、舞台上の酷評には昂奮《こうふん》しないわけにはゆかなかった。それから間もなくその舞台装置の責任者であった、洋画家|小糸源太郎《こいとげんたろう》氏が、どうしたことか文展へ出品した額面を、朝早くに会場へまぎれこんで、自分の手で破棄したことにつき問題が持上り、小糸氏は将来絵筆をとらぬとかいうような事が伝えられた。口さがない楽屋雀《がくやすずめ》はよい事は言わないで、何かあると、緑の朝ですかねというような反語を用いた。その評判を逆転しようとしたのが松竹会社の策略であった。松竹は芸術座を買込み約束が成立すると、その魁《さきがけ》に明治座へ須磨子を招き、少壮気鋭の旧派の猿之助《えんのすけ》や寿美蔵《すみぞう》や延若《えんじゃく》たちと一座をさせ、かつてとかく物議《ぶつぎ》の種
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