《たね》になった脚本をならべて開場した。
 二番目には寿美蔵延若に、谷崎潤一郎作の小説の「お艶《つや》殺し」をさせることになった。これは芸術座が新富座《しんとみざ》で失敗した狂言である。お艶を須磨子が、新助は沢田正次郎《さわだしょうじろう》が演じて不評で、その後|直《じき》に沢田が退座してしまったのを出させ、その代りに中幕《なかまく》へ「祟《たた》られるね」というような代名詞につかわれている「緑の朝」を須磨子に猿之助が附合《つきあ》うことになった、無論菊五郎にはめ、男にした主人公を原作通り女にして須磨子の役であった。
 稽古《けいこ》の時分に須磨子は流行の世界感冒《せかいかぜ》にかかっていた。丁度私が激しいのにかかって寝付いているとA氏が見舞に来られて、私が食事のまるでいけないのを心配して、島村さんも須磨子も寝ているがお粥《かゆ》が食べられるが、初日が目の前なので二人とも気が気でなさそうだとも言っていられた。二人とも日常《ひごろ》非常に壮健《じょうぶ》なので――病《わず》らっても須磨子が頑健《がんけん》だと、驚いているといっていたという、看病人の抱月氏の方がはかばかしくないようだった。どうにか芝居の稽古までに癒《なお》った彼女は、恩師を看《みと》る暇もなく稽古場へ行った。
 十一月四日の寒い雨の日であった、舞台稽古にゆく俳優たちに、ことに彼女には細かい注意をあたえて出してやったあとで抱月氏は書生を呼んで、
「私は危篤らしいから、誰が来ても会わない」
と面会謝絶を言いわたした。出してやるものには、すこしもそうした懸念をかけなかったが、病気の重い予感はあったのだった。慎しみ深い人のこととて苦しみは洩《もら》さなかった。かえって、すこし心持ちがよいからと、厠《かわや》にも人に援《たす》けられていった。だが梯子段《はしごだん》を下《お》りるには下りたが、登るのはよほどの苦痛で咳入《せきい》り、それから横になって間もなく他界の人となってしまった。
 不運にも、その日の「緑の朝」の舞台稽古は最後に廻された。心がかりの時間を、空《むな》しく他の稽古の明くのを待っていた芸術座の座員たちは、漸《ようや》く翌日の午前二時という夜中に楽屋で扮装を解いていると、
「先生が危篤ということです」
と伝えられた。取るものも取りあえず駈戻《かけもど》ったが、須磨子は自用の車で、他の者は自動車だったので、一足さきへついたものは須磨子の帰るのを待つべく余儀なくされていると、彼女はすすりなきながら二階へ上っていったが、忽《たちま》ちたまぎる泣声がきこえたので、みんな駈上《かけあが》った。
 彼女は死骸《しがい》を抱いたり、撫《な》でさすったり、その廻りをうろうろ廻ったりして慟哭《どうこく》しつづけ、
「なぜ死んだのです、なぜ死んだのです。あれほど死ぬときは一緒だといったのに」
と責《せめ》るように言って、A氏の手を振りまわして、
「どうしよう、どうしよう」
と叫び、狂うばかりであった。どうしても、も一度注射をしてくれといってきかないので、医者は会得《えとく》のゆくように説明のかぎりをつくした。
「あんまりです、あんまりです。どうにかなりませんか? どうかしてください。これではあんまり残酷です」
 狂い泣きをつづけた。

       三

 神戸に住む擁護者《パトロン》のある貴婦人に須磨子がおくった手紙に、
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私は何度手紙を書きかけたか知れませんけれど、あたまが変になっていて、しどろもどろの事ばかりしか書けません。一度お目にかかって有《あり》ったけの涙をみんな出さして頂きたいようです。
奥様、役者ほどみじめな者は御座いません。共稼《ともかせ》ぎほどみじめな者はございません。私は泣いてはおられずあとの仕事をつづけて行かなくてはなりません。今の芝居のすみ次第飛んでいって泣かして頂きたいのですけれども、仕事の都合でどうなりますやら……
奥様、私の光りは消えました。ともし火は消えました。私はいま暗黒の中をたどっています。奥様さっして下さいませ。
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「私は臆病なため死遅《しにおく》れてしまいました。でも今の内に死んだら、先生と一緒に埋めてくれましょうね」
 笑いながら、戯言《じょうだん》にまぎらしてこう言ったのを他の者も軽くきいていたが、臆病と言ったのは本当の気臆《きおく》れをさして言ったのではなくって、死にはぐれてはならない臆病だったのだ。適当の手段を得ずに、浅間しく生恥《いきはじ》か死恥《しにはじ》をのこすことについての臆病だったのだ。一番容易に死ぬことが出来て、やりそくないのない縊死《いし》をとげるまで、臆病と自分でもいうほど、死の手段を選んでいたのだ。
 座の人たちが思いあたることは、この春の興行に、「ヘッダガブラア」
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