が候補になったところ、彼女はどうしても嫌だと言張った。ヘッダのようなあんな烈しい性格のものばかりやるのは嫌だといってきかなかった。その時の反対のしかたが異状だったので、脚本部の人たちも驚いていたのだが、いま思えば自殺の決行について絶えぬ闘争があったのではなかったかと言っている。ヘッダは最後にピストルで自殺する役である。それかあらぬか、それよりもすこし前に彼女はピストルを探して、弾丸《たま》だけ探しだして、
「先生のピストルは何処へやっちゃったのだろう。いくら探しても見つからない。私が死にやしないかと思って誰れか隠したのよ」
と呟《つぶ》やいていたそうだ。
 彼女に近い人のなかには泣かれ役という言葉があった。青い布をかけた卓《テーブル》の上に、大形《おおがた》の鏡がおいてある室《へや》が彼女の泣き室なのであった。彼女は孤独でいる時は、その鏡のなかへ具合よく写ってくる壁上にかけた故人の写真を見ては泣いている。人がはいってゆけば、その人を対手《あいて》にして尽《つき》ることなく、綿々《めんめん》と語り、悲嘆にくれるので、慰めようもなくて、捕虜になるのは禁物だと敬遠しあったほどだった。
 かつ子にわか子という二人の養女は、まだやっと十二、三位で二人とも郷里《くに》の親戚《しんせき》から来ている。
 も一人いつぞや「人形の家」のノラを演じたときに、幼ない末子を勤めた女の子があった。あれは松井の子だったのではないかしら、あんまりよく似ているというようなことを、今度その少女《むすめ》も葬式に来たときに内部の人は言った。しかしその少女のことは遺書にはなかった。二人の養女にもよい具合にしてやってくれと書いてあっただけである。かつ子といった方が相続者になったが、須磨子の母親のおいしという、七十の老女が後見人になり、縁類の某海軍中将がその管理人になった。そして彼女の一七日がすむと、雪深い故郷の信州へと帰っていった。残された建物――旧芸術倶楽部――故人二人《なきひとたち》の住んでいた記念の建物はどうなるのやら、そのままで帰ってしまった。
 死面《デスマスク》は、彼女の生際《はえぎわ》の毛をすこしつけたままで巧妙に出来上ったそうで、生《いき》ているときより可愛らしい顔だといわれた。
 可愛らしい顔といえば、彼女の愛敬《あいきょう》のある話をきいたことがある。彼女はあるおり某氏をたずねて、女優になりたいが鼻が低いからとしきりに気にしていた。そこで某氏はパラフィンを注射した俳優に知合《しりあい》のある事をはなして、そんな例もあるから心配するにも及ぶまいというと、彼女はその俳優の鼻が見せてもらいたいといいだしたので連れてゆくと、やっと安心してその後注射した。
 鼻の問題ではも一つ面白い挿話《エピソード》がある。佐藤(田村)俊子さんが、文芸協会の女優になろうとしたことがある。女史は充分に舞台を知っているうえに、遠くない前に本郷座《ほんごうざ》で「波」というのを演《や》って、非常な賞讃を得た記憶が新しかったから、気まぐれではなかったのにどうしたことか中止してしまった。ある日そのことを言出して、噂《うわさ》は嘘だったのか本当だったのかと聞くと、
「嘘のことはない。やろうと思ったから行ったのだけれど中止《やめ》にしてしまったの。だって、須磨子の鼻を見ていたら――鼻の低いものが寄合ったってしようがないじゃないの」
 あの女史はポンポンと言ってしまったけれど、口のさきと心の底と、感じたものとおなじであったかどうかはわからない。感覚の鋭い女史が、激しい気性の須磨子と上になることも下になることも出来にくいと、見てとったと思うのは推測にすぎるかもしれないが、低い鼻という愛敬にかたづけてしまった俊子女史の機智《ウィット》もおもしろい。いま米国《アメリカ》の晩香波《バンクーバー》に新しい生涯を開拓しようとして渡航した女史のもとに、彼女の訃《ふ》がもたらされたならばどんな感慨にうたれるであろう。
 須磨子の年|老《と》った母親は他人が悔みをいったときに、
「どうせ死神につかれているのですから、今度死ななくなったって、何処かで死んだでしょうから」
と諦《あき》らめよく言切ったそうである。
 彼女の故郷は? そうした母親の懐《ふところ》! 彼女が故郷への初興行は、たしかズウデルマンの「故郷」のマグダであったかと思う。そのおりの名声はすさまじいもので、県の選出代議士某氏は、信州から出た傑物は佐久間象山《さくましょうざん》に松井須磨子だとまで脱線した。けれどその須磨子の幼時は、故郷の山河は人情の冷たいものだという観念を印象させたに過ぎなかったのだ。
 長野県|埴科郡松代在《はにしなごおりまつしろざい》、清野村《きよのむら》が彼女の生れた土地《ところ》で、先祖は信州上田の城主|真田《さなだ》
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