家の家臣、彼女の亡父も維新のおりまで仕官していた小林藤太という士族である。芸術倶楽部の一室に、九曜の星の定紋のついた陣笠がおいてあった。幕府の倒壊と共に主と禄《ろく》に離れた亡父も江戸に出て町人になったが、馴《な》れぬ士族の商法に財産も空しくして故山に帰《か》えった。
 信州の清野村に小林正子の彼女が生れたのは、明治十九年の十二月で八人の兄と姉とを持った末子であった。六歳《むっつ》のときに親戚にあたる上田市の長谷川家へ養女に貰われていった。小学校時代から勝気で、男の児《こ》に鎌を振りあげられて頭に傷を残している。十六歳の時になって不幸は萌《きざ》しはじめた。養父の病死に一家は解散し、誠の母親よりも慈愛に富んでいた養母とも離れることになった。実家に引き取られ、その年の秋には、実父にも別れた。僅《わずか》の間に二人の父を失った彼女は、草深い片田舎《かたいなか》に埋もれている気はなかった。姉を頼りにして上京したのが、明治卅五年の四月、故郷《ふるさと》の雪の山々にも霞《かすみ》たなびきそめ、都は春たけなわのころ、彼女も妙齢十七のおりからであった。
 彼女が頼みにして来た姉の家は麻布《あざぶ》飯倉《いいくら》の風月堂という菓子舗《かしや》であった。義兄の深切で嫁《とつ》ぐまでをその家でおくることになったが、姉夫婦は鄙少女《ひなおとめ》の正子を都の娘に仕立《したて》ることを早速にとりかかり、気の強い彼女を、温雅な娘にして、世間並みに通用するようにと、戸板裁縫女学校を選《え》らまれた。
 彼女が後に文芸協会の生徒になって、暫時|独身《ひとりみ》でいたとき、乏しいながらも二階借りをして暮してゆけたのは一週に幾時間か、よその学校へ裁縫を教えにいって、すこしばかりでもお金をとる事が出来たからで、その時裁縫女学校へ通ったという事はかの女《じょ》の生涯にとって無益《むだ》なものではなかった。
 都の水で洗いあげられた彼女は風月堂の看板になった。――彼女は美しい、いや美人ではないということが時々持ちだされるが舞台ではかなり美しかった。厳密にいったなら美人ではなかったかも知れないが、野性《ワイルド》な魅力《チャーム》が非常にある型《タイプ》だ。
 正子が店に座るとお菓子が好《よ》く売れるという近所の評判は若い彼女に油をかけるようなものであった。縁談の口も多くあったが断るようにしているうちに、話がまとまって彼女は嫁《とつ》いだ。十七歳の十二月はじめに上総《かずさ》の木更津《きさらづ》の鳥飼《とりかい》というところの料理兼旅館の若主人の妻となった。
 彼女はどこまでも優しい新妻《にいづま》であり、普通の女らしい細君であったが、信州の山里から出て来たのは、こんな片田舎の料理店の細君として納まってしまう約束であったのであろうかと思わぬわけにはゆかなかった。それに彼女の故郷の風習と、木更津あたりの料理店の女将《おかみ》である姑《しゅうとめ》の仕来《しきた》りとは、ものみながしっくり[#「しっくり」に傍点]とゆかなかったその上に、若主人は放蕩《ほうとう》で、須磨子は悪い病気になったのを、肺病だろうということにして離縁された。
 ……私は思う。勝気な彼女の反撥心《はんぱつしん》は、この忘れかねる、人間のさいなみ[#「さいなみ」に傍点]にあって、弥更《いやさら》に、世を経《ふ》るには負《まけ》じ魂《だましい》を確固《しっかり》と持たなければならないと思いしめたであろうと――
 嫁入ってたった一月《ひとつき》、弱まりきった彼女はまた飯倉の姉の家にかえってきた。健康が恢復《かいふく》して来ると、五年の星霜《せいそう》は、彼女には何かしなければならないという欲求が起って来た。
 正子が松井須磨子となる第一歩は、徐々に展開されるようになった。彼女に結婚を申込んだ人に前沢誠助《まえざわせいすけ》という青年があった。高等師範に学んでいたが、東京俳優学校の日本歴史教師を担任していた。俳優学校というのは、新派俳優の故参、藤沢浅次郎《ふじさわあさじろう》が設立したもので、そのころ米国哲学博士の荒川重秀《あらかわしげひで》氏も新劇団を起し、前沢はその方にも関係を持っていた。その青年の求婚は須磨子の方でも気が進んだのであろう。前沢の乏しい学生生活に廿二歳の正子という華やかな色彩が加わった。
 堅気《かたぎ》の家に寄宿して、出京しても一度も芝居を見なかった若い細君の耳へ、毎日毎日響いてくるのは、劇に新生面を開いてゆかなければならないと、論じあう若き人々の声ばかりであった。新時代の要求は立派な女優であるというような事も響いた。良人《おっと》の前沢は妻にもそれを解らせようとした。彼女も知らずしらずに動かされて女優修業をしようと思い立った。前沢の関係のある俳優学校は女優を養成しなかったので、坪内先生
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