の文芸協会へはいることになった。
当時、文芸協会の女優生徒の標準は高かった。英文学の講義、英語の素読というような科目もあった。彼女は試験委員の一人であった島村氏の前へはじめて立ったおり、島村氏はじめ他の委員も彼女の強壮なのと、音声の力強いのと、体躯《からだ》の立派なのに合格としたが、英語の素養のないので退学させられるということになった。
彼女の異状な勉強はそれからはじまる。彼女は二つのおなじ英語の書籍を持って、一つにはすっかりと一字一字仮名をつけ、返り点をうち、鵜呑《うの》みの勉強をはじめた。教える方が面倒なために持てあますほどであった。その熱心さが坪内博士を動かして、特別に別科生として止まる事が出来たのであった。彼女は熱心と精力のあるかぎりをつくしたのでABCもよく出来なかったのが三ヶ月ばかりのうちに、カッセル版の英文読本をもってシェクスピアの講義を聴くことが出来た。他の生徒に負けぬように芝居に関する素養も造っておこうというので、学校の余暇には桝本清《ますもときよし》について演芸の知識を注入した。
文芸協会の第一期公演は、第一期卒業の記念として帝国劇場で開催された。それが須磨子にも初舞台である。多くあった女生《じょせい》もその時になると山川|浦路《うらじ》と松井須磨子とだけになっていた。ハムレット劇の王妃ガーツルードは浦路で、オフィリヤは須磨子であった。それは明治四十四年の五月のことで、新興劇団の機運はまさに旺盛《おうせい》の時期とて、二人の女優は期待された。
廿五歳になったおり卒業を前に控えて彼女の第二の離婚問題はおこった。自分の天分にぴったりとはまった仕事を見出すと、彼女の倨傲《きょごう》は頭を持上げはじめた。勝気で通してゆく彼女は気に傲《おご》った。それに漸《ようや》く人物の価値《ねうち》の分るようになった彼女は前沢との間が面白くなくなりだした。満されないものがはびこりはじめた。良人との衝突も度重《たびかさ》なって洋燈《らんぷ》を投げつけるやら刃物三昧《はものざんまい》などまでがもちあがった。とうとう無事に納まらなくなってしまった。その間に彼女は卒業した。
ヒステリー気味な所作《しうち》は良人へばかりではなかった。同期生の男たちが、山出《やまだ》しとか田舎娘などとでも言ったら最期《さいご》、学校内でも火鉢が飛んだりする事は珍らしくなかったのである。けれども気性のしっかりしているのも群を抜いていたという。一度言出したことは先生の前でも貫こうとする。そういった気性が女王《クイン》になった芸術座でもかなり人を困らせたのだ。
彼女もまた時代が命令して送りだした一人の女性である。たまたま彼女が泰西《たいせい》の思想劇の女主人公となって舞台の明星《スター》となったときに、丁度我国の思想界には婦人問題が論ぜられ、新しき婦人とよばれる若い女性たちの一団は、雑誌『青鞜《せいとう》』を発行して、しきりに新機運を伝えた。すべて女性中心の渦《うず》は捲《ま》き起り、生々とした力を持って振《ふる》い立った。その時に「人形の家」のノラに異常な成功をした彼女は、驚異の眼をもって眺められた。彼女の名はあがった。
ある夜更《よふ》けに冷たい線路に佇《たた》ずみ、物思いに沈む抱月氏を見かけたというのもそのころの事であったろう。ノラの舞台監督で指導者の抱月氏に、須磨子が熱烈な思慕を捧《ささ》げようとしたのもその頃のことであった。
恋と芸術の権化《ごんげ》――決然と自己を開放した日本婦人の第一人者――いわゆる道徳を超越した尊敬に値いする人――『須磨子の一生』の著者はそう言っている。
彼女は猛烈に愛した。彼女はその恋愛によって抵抗力を増した。けれど抱月氏の立場は苦しかった。総《すべ》てのものが前生活と名をかえてしまった。家庭の動揺――文芸協会失脚――早稲田大学教職辞任――
彼女にも恩師であった坪内先生の、畢世《ひっせい》の事業であった文芸協会はその動揺から解散を余儀なくされてしまった。島村氏も先生にそむいた一人になった。
嫉視《しっし》、迫害、批難攻撃は二人の身辺を取りまいた。抱月氏の払った恋愛の犠牲は非常なものだったが、寂しみに沈みやすいその心に、透間《すきま》のないほどに熱を焚《た》きつけていたのは彼女の活気であった。そして抱月氏が生《いき》る道は彼女を完成させなければならなかった。かなり理解を持っているものですら、学者は世間見ずのものであるが、ああまで社会的に堕落してゆくものかとまで見られもした。貨殖《かしよく》に忙《せわ》しかった彼女が種々《いろいろ》な客席へ招かれてゆくので、あらぬ噂さえ立ってそんな事まで黙許しているのかと蜚語《ひご》されたほどである。「緑の朝」のすぐ前に、歌舞伎座で「沈鐘《ちんしょう》」の出されたおり楽屋のも
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