、舞台で気の狂った紀久八がモデルであった。小栗風葉《おぐりふうよう》だったかのに、「鬘下地《かつらしたじ》」というのがある。
「紀久八は舞台で気狂いになったが――あたしは舞台で死ねれば本望だ。なあに、小芝居だって見世物小屋だって、お客さまはみんな眼玉をもってらっしゃる。どんな人が見てくださってるかわかりゃしない。」
「じゃあ、まあ、とにかく、大阪の方の話は、出来そうな工合に、返事をしといてもいいね。」
――これは、もちっと後《あと》のことで、九女八はこの大阪から帰ってから後、大正二年の七月に、浅草公園の活動|劇場《しばい》みくに座で、一日三回興業に、山姥《やまうば》や保名《やすな》を踊り、楽屋で衣裳《いしょう》を脱ごうとしかけて卒倒し、そのままになってしまったのだった。大阪で溜《ため》て来た金は、九女八が、何か計画して考えていたことには用いられず、終焉《しゅうえん》の用意となってしまったのだが、台助は、そんな予感がしたのかどうか、ふいと、仕かけていたその談話を打ち切って、
「俺は、ちょいとその事で、出かけてくる。」
と着更《きがえ》をしかけたところへ、静枝が名刺を読みながら来て、
「
前へ
次へ
全26ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング