のじょう》の名を取り上げられ、九代目団十郎から破門され、また岩井粂八の名にかえって、暫《しばら》く蟄伏《ちっぷく》しなければならなかった、嫌な思出と、若かった日のことなども、それからそれへと、九女八も思いうかべている。
「お師匠さんは、新潟へ入《い》らしった時から、九女八だったとばっかり思ってました。あたし、ちいさい時でしたから。」
「市川升之丞さ。」
九女八は、莨《タバコ》の脂《やに》の流れた筋が、飴《あめ》色に透通《すきとお》るようになった、琥珀《こはく》のパイプを透《すか》して眺めて、
「あたしは、一番はじめの、踊の名取りが阪東桂八《ばんどうけいはち》さ。それから、女役者になって岩井粂八、それから市川升之丞、守住月華、市川九女八さ。」
随分とりかえたものさねと、自分のことではないような、淡々としたふうにいって、
「だが、師匠運は、ばかに好いのさ。阪東|三津江《みつえ》というお狂言師は、永木《えいき》三津五郎という名人の弟子で、まあ、ちょっとない名人だよ、高名なものさ。岩井半四郎は、大杜若《おおとじゃく》と呼ばれた人の孫だったかで、好い容貌《きりょう》の女形《おやま》だった。けれど、なんといったって、市川宗家《つきじ》ほどの役者の、門弟《でし》になったなあ、あたしの名誉さ。」
ほんとに、団十郎の芸には心酔している言いぶりだった。
「好い先生といえば、ねえ、お師匠さん、依田先生が、和歌も学んだ方が好いから、竹柏園《ちくはくえん》に通ったらどうだと仰しゃって、入門のことを話しといてあげると仰しゃいました。」
「そりゃあ豪儀だな。」
ふくみ笑いを、ほんとに笑ってしまって、
「学問は上達しても、踊が、あれじゃあなってねえな。お前《めえ》たちのは、踊ってるんじゃなくて、畳を嘗《な》めてるんだ。」
機嫌の好い皮肉だった。
「あっしゃ全体、神田の豊島町《としまちょう》で生れたんだけれど、牛込《うしごめ》の赤城下《あかぎした》に住んでたのさ。お父さんはお組役人――幕末《あのころ》の小役人《こやくにん》なんざ貧乏だよ。赤城神社《あかぎさま》の境内《なか》に阪東三江八ってお踊の師匠さんがあってね、赤城さまへ遊びにゆくと、三江八さんのところの格子《こうし》につかまって覗《のぞ》いてばかりいたのさ。」
呼びこまれて踊ってみると、見覚えで踊れた。それから親には内密《ないしょ》で教えてくれたのだが、お母さんが肩を入れだして、どうかお父さんに許されるようにと、何かの祝事《いわいごと》のあった時、父親やその仲間のいるところで本式に踊らして見せたので、その後、直に父親を歿《なく》なしてからも、十三、四から踊りの手ほどきをして、母親と二人で暮していけたのだがと、めずらしく身の上ばなしをしだした。
「お文《ぶん》さんという、常磐津《ときわず》の地で、地弾《じび》きをしてくれる人が、あたしを可愛がってね。小石川|伝通院《でんづういん》にいた、高名な三津江師匠のところへ連れてってくれたのだが芸は怖《こわ》い。」
と彼女はふとい息を吐いた。
「それまで、あたしが踊ってたのは、手ふりさ、踊りなんかじゃないのさ。それから、本当の踊りをしこまれた。」
「そういえばお師匠さん、高橋お伝をおやんなさったことがあるでしょ。」
「ああ、たしか明治十七年ごろだった。」
「いいえ、もっとあとで、見た人が、お伝になった、お師匠《しょ》さんの扮装《おつくり》を見て、お師匠《しょ》さんの若い時分――年増《としま》ぶりを見た気がしたって、言ってました。」
「あッしゃあ、あんなじゃなかったよ。」
苦りきったかげが唇をかすめたが、湯呑《ゆのみ》の銀の蓋《ふた》をとって、お茶を飲んでしまった。
「もっとも、あの着附《きつけ》は、あの時分の年増の気のきいた好みさ。だが、あッしばかりじゃない。全体、あの『綴合於伝仮名書《とじあわせおでんのかながき》』というのは、いつだったかねえ、お伝の所刑《しょけい》は九年ごろだったから――十一、二年ごろに菊五郎《ごだいめ》が河竹黙阿弥《かわたけもくあみ》さんに書下《かきおろ》してもらって、そうそう裁判所のところが大詰《おおづめ》に出るので、大道具|長谷川勘兵衛《かんべい》さんと、裁判所まで行ったんだよ。なんでも、その時の話に、おでんという女《ひと》は伝法《でんぽう》な毒婦じゃなくって、野暮《やぼ》な、克明な女だから、そういうふうに演《や》るっていったことだが――そうかも知れないね。お伝は、上州沼田というところの御家老の落し種で、利根《とね》の方の農家《おひゃくしょう》のところで生れたのだそうだから。」
「でも、お師匠《しょ》さん、すこし根下りの大丸髷《おおまるまげ》に、水色|鹿《が》の子《こ》の手柄で、鼈甲《べっこう》の櫛《くし》が眼に残っていますって
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