で踊のおさらいのような、けばけばしい鏡台前ではなかった。筆は一本|兎《うさぎ》の足が一ツという簡素さだ。お茶とかき餅《もち》がすきなので、それだけは、いつも傍《かたわ》らにある。
「桂《かつら》がさきへ帰るからね、晩御飯に、さんま食べるって――浅漬《あさづけ》もとっといておくれ。」
湯呑《ゆの》みと手鏡を持って、舞台裏まで附いてゆく静枝にいいつけた。
根岸の家《うち》は茶座敷などもあって、庭一ぱいの鷺草《さぎそう》が、夏のはじめには水のように這《は》う、青い庭へ、白い小花を飛ばしていた。
そんな日の午前《あさ》、紫の竜紋《りゅうもん》の袷《あわせ》の被衣《ひふ》を脱いで、茶筌《ちゃせん》のさきを二ツに割っただけの、鬘下地《かつらしたじ》に結《ゆ》った、面長《おもなが》な、下ぶくれの、品の好い彼女は、好い恰好《かっこう》をした、高い鼻をうつむけて、そのころ趣味をもった、サビタや、メションや琥珀《こはく》のパイプを、並べて磨いている。
養女の菊子に、台助が、意味をもった眼づかいをして、何か小用を、甘ッたるく言いつけているのを後にきいて、軽く眉をひそめていたが、台助が外出した気配にホッとしたようで、
「静枝さんは、依田《よだ》先生のところへいったかい。」
「ええ、丁度、今帰りました。坂本の栄泉堂《おかの》へお菓子を買いにいったら、帰りが一緒になりましたの。」
と、内弟子の華代子《かよこ》が、餅菓子を好い陶器《やきもの》の鉢《はち》へ入れて持って来ていった。
二人の内弟子のうち、華代子は他のものにはきらわれたが気に入りなので、師匠の小間使いをしている。静枝には海老茶袴《えびちゃばかま》をはかせて玄関番をさせ、神田小川町の依田|百川《ひゃくせん》――学海《がくかい》翁のところへ漢学をならわせにやるのだった。
「女役者だって、学問があって、絵が描けなければだめだよ。」
彼女も、用がなければ、サビタのパイプを弄《いじ》る前には、絵筆を捻《ひね》っているのだった。
けれど彼女に、守住|月華《げっか》という雅号のような名があるのは、絵を描くためではなくって、明治十一年ごろからはじまった、演劇改良会の流れで、演劇改良論者の仲間であった学海が、明治廿四年浅草公園裏の吾妻《あづま》座(後の宮戸座)で、伊井蓉峰《いいようほう》をはじめ男女合同学生演劇済美館の旗上げをした時、芳町《よしちょう》の芸妓|米八《よねはち》には千歳米波《ちとせべいは》と名乗らせた時分だったか、もすこし後《あと》で、川上|貞奴《さだやっこ》を援助《たすけ》に出た時だかに、彼女にも守住の本姓に月華という名を与えたのだった。
岩井|粂八《くめはち》といった時分の弟子には、紀久八《きくはち》たちがあるが、月華になってからは、かつらとか、名古屋の源氏節から来た女にも、華紅《かこう》とか、華代子とかいう名をつけた。新しい弟子の静枝も、学海|居士《こじ》が名づけたのだった。
彼女は、好物な甘いもので、苦《にが》いお茶を飲んで、閑《しず》かな日が、気持ちよげだった。
「こんやは一ツ、静《しい》ちゃんに『舌出し三番』でも教えるか。」
といったが、古い日のことを思出したのであろう、お前の踊の師匠だった、おとねさんは、しどいよ、と言った。
おとねさんという名をきくと、静枝は故郷の新潟《にいがた》の花柳界《さかりば》を思いだした。静枝の踊の師匠は、市川の名取りで、九代目団十郎の妹のお成《なる》さんという浅草|聖天町《しょうてんちょう》にいた人の弟子だった。
「そういえば、お師匠さんが新潟へお出《いで》になった時、あたしはまだ小《ち》っぽけでした。お揃《そろ》いの浴衣《ゆかた》を着て、川蒸気船の着く、万代《ばんだい》橋の川っぱたまで、お迎えに出ていましたっけ。」
「うん、そんなこともあったっけね。」
九女八は凝《じっ》と、庭の鷺草を見つめた。
新潟の花街《さかりば》で名うての、庄内屋の養女だった静枝までが、船着き場へ迎いに並んだほど、九女八の乗り込みは人気があったのだが、それも、会津屋《あいづや》おあいといった芸妓が、市川流の踊りの師匠で、市川とねと名のっていたから、同門の誼《よし》みで、華々しく迎えたのだった。
土地の顔役で、江戸生れのお爺さん、江戸鮨《えどずし》の孫娘に生れた静枝は、直江津《なおえつ》までしか汽車のなかった時分の、偉い女役者が乗込んで来た日の幼かった自分の事も、あの、日本海の荒海から流れ込んでくる、万代橋の下の水の色とともに目にうかべ、思い出していた。
「出しものは道成寺《どうじょうじ》だ。勧進帳《かんじんちょう》を出したのは、興行師《ざかた》らから、断わりきれない頼みだったんだ。そのこたあ、おとねだって知ってたのに。」
それがもとで、市川|升之丞《ます
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