――黒っぽい透綾《すきや》の着物に、腹合せの帯、襟裏《えりうら》も水浅黄《みずあさぎ》でしたってね。そうだ、帯上げもおなじ色だったので、大粒な、珊瑚珠《さんごじゅ》の金簪《きんかんざし》が眼についたって。」
朝、目が覚めて、蚊帳《かや》から出た時に、薄暗い庭の植込みに、大輪な紫陽花《あじさい》の花を見出すと、その時の九女八のおでんが浮びあがるといったことや、それは、浅草|蔵前《くらまえ》の宿で、病夫浪之助を殺して表へ出た時の着附《きつけ》だったか、捕《つか》まる時のだか、そんなことはもう、朧《おぼろ》げになってしまっているといってたのを、はなした。
「お師匠さんは、あんな役、厭《きら》いなんでしょ。」
「まあね、いって見れば、あたしは、女団洲と呼ばれたくらいだし、自分でも、団十郎《くだいめ》のすることの方が好きだから――わかりもしないくせに、高尚ぶってるといわれたりしたけれど、もともとお狂言師は、生世話物《きぜわもの》をやらなかったからねえ。それが癖になってて、新世話物《ざんぎり》に行けなかったのかも知れない。」
――けど、おかしいわ、ちっと――
そうそう、新入門の、とし子さんならば、そうハキハキと問えるかもしれない、と考えながら、静枝は、
「でも――それでも、お師匠《しょ》さんは、もっと新らしい、書生芝居にもお出なすったのでしょう。」
九女八は、理窟《りくつ》を言う、静枝のみずみずした丸い顔を見て、
「あたしは、こんな、小さな柄《がら》だけれど、毛剃《けそり》だの、熊谷《くまがい》の陣屋だの、あんなものが好き。山姥《やまうば》なんぞも団十郎のいき[#「いき」に傍点]で、彫刻《ほりもの》のように刻《ほ》りあげてゆきたい方だが、野田安《のだやす》さんて、松駒連《まつこまれん》の幹事さんで芝居に夢中な人が、川上さんのお貞さんを助けて出ろと、なんといってもきかないのでね、芸は修業だから出もしたし、それに文士方の新史劇の方は、――史劇は団十郎《ししょう》も気を入れていたのだもの。」
彼女はふと気を代えていった。
「お前さんも、あんな、抱えの芸妓衆《げいしゃしゅう》や、娼妓《おいらん》が、何十人いるうちの、踊舞台だって、あんな大きなのがある、庄内屋さんの家督《あととり》娘に貰《もら》われてて、よくよく芸が好きなればこそ、家を飛出してあたしんとこなんぞの、内弟子になってるんだから、よく覚えてくれなけりゃあ、しようがない。」
そら、お談議になったと、静枝がかしこまって、閉口《へいこう》しかけているところへ、
「今日《きょう》、お髪《ぐし》、お染めになりますか。」
と、風呂《ふろ》の支度をする女中がききに来たので、静枝は、やれ助かったとホッとした。
二
――降り出した雨。
ト、舞台は車軸を流すような豪雨となり、折から山中の夕暗《ゆうやみ》、だんまり模様よろしくあって引っぱり、九女八役《くめはちやく》は、花道|七三《しちさん》に菰《こも》をかぶって丸くなる。それぞれの見得《みえ》、幕引くと、九女八起上り合方《あいかた》よろしくあって、揚幕《あげまく》へ入る――
蚊のなくように、何時《いつ》、どこで、なんの役でかの、狂言本読みの、立《たて》作者が読んできかす、ある役の引っこみの個処《ところ》が、頭の奥の方で、その当時聴いた声のままで繰返してきこえる。それについて、その役の、引っ込みの足どりまで、九女八は眼の前の、庭の雨を眺めながら、考えるともなく考えているのだった。
――はて、この役は、女だったかな、男だったかな――
ながい舞台生活は、華やかなようでも、演《や》る役は、普通生活とおなじで、そうそう他種類はない。自分についた持役《もちやく》は大概きまっていて、柄にない役はもってこないのだが、どうしたことか、今考えている役がなんだか、九女八には思いだせない、それに、なんでも思い出さなければならないことでもない。と、そう思うかげに、ながい間役者をしたが、とうとう、団十郎《ししょう》と一つ舞台に並べなかったという、何時も悲しむさびしさが、心の奥を去来していた。
「あたしは、考えかたが、間違ってた。」
九女八は、鷺草の、白い花がポツポツと咲き残るのへ降る雨が、庭面《にわも》を、真っ青に見せて、もやもやと、青い影が漂うようなのに、凝《きっ》と心をひかれながら、呟《つぶや》いた。
「なにがよ。」
芸者や、役者の配り手拭《てぬぐい》の、柄の好いのばかりで拵《こしら》えた手拭浴衣を着て、八反《はったん》の平《ひら》ぐけを前でしめて、寝ころんだまま、耳にかんぜよりを突ッこんでいた台助が、腑《ふ》におちない顔をした。
「なんてって――」
九女八は、まだ、素足《すあし》の引っこみの足どりの幻影《かげ》を、庭の、雨足のなかに追
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