いながら、
「成田屋《ししょう》のうちの庭は、あすこらあたりに、大きな、低い、捨石があったっけが――」
と、自分でも思いがけない、話の本筋とは違うことを、ふいと、口に浮び出したままいった。
「お歿《なく》なんなすってからも、居間《おへや》の前の庭は、当時そのままだから――」
九女八は、一木一石といったふうの団十郎《ししょう》の家《うち》の庭に、鷺草が、今日も、この雨に、しっとりと濡《ぬ》れているだろう風情《ふぜい》を、思うのだった。
台助は、なんとなく顔をあげて、庭もせから、部屋の中を見廻した。其処《そこ》には、自分の趣味なんぞ半|欠《か》けらもなかった。九女八の好みであり、それは、彼女が私淑した成田屋《くだいめ》好みである、書画、骨董《こっとう》、それら、人格に深みを添えるたしなみが、女役者の住居《すまい》とは思わせなかった。
「高田先生(早苗《さなえ》)は、あたしを女のままで、女役にして、団十郎《ししょう》の相手を演《や》らせてくださろうとなさったのだったと、はじめて――始めて、わたしは気がついた。」
九女八の唇は細かくふるえている。ちらりと、それを、台助は見ないのではないが、
「今更おそい――か。おくれたりだなあ。」
同情しながら、わざというのかもしれないが、おひゃらかしたふうにもとれた。が、九女八はそれにはかまわず、
「師匠の芸の神髄を掴《つか》んだ、と思ったのは真似《まね》だけだったのか――師匠は、女団洲なんて、嫌《いや》だったろうなあ。」
「だってお前《めえ》、団十郎《なりたや》だって、高田さんにそういったってじゃねえか、九女八《あれ》が男だと、対手《あいて》にして好い役者だって――だから、お前が、女に生れたってことが、師匠《くだいめ》といっしょに演《や》れなかったということなんで、生れかわらなきゃ、頭から駄目だったのだ。」
「そうじゃありませんよ、静枝やとし子さんの考えを見ても、川上さんや、依田先生たちのことを思い出しても、あたしは、毛剃《けそり》や、弁慶が巧《うま》かったのがいけなかった。」
「高田先生は、そのつもりだったのかも知れないが、宗家《そうけ》はそうじゃなかろうぜ。」
「あたしを女優――女形《おやま》として、相手にはしなかったろうとですか?」
「そうじゃないか、彼女《あれ》は立派な役者《もの》だ。男だったら、俺《おれ》の相手だがと、だから、高田先生《せんせい》に言ったんだ。」
「いいえ。」
九女八はしみじみとして、
「あたしがねえ、小芝居ばかりに出ていたので、どうかして、あれを止《や》めねえものかと仰しゃってたそうだから――」
緞帳《どんちょう》芝居――小芝居へ落ちていた役者《もの》は、大劇場出身者で、名題役者《なだいやくしゃ》でも、帰り新参となって三階の相中部屋《あいちゅうべや》に入れこみで鏡台を並べさせ、相中並の役を与え、慥《たし》か三場処ほど謹慎しなければ、もとの位置にはもどさない仕来《しきた》りがある、階級的な差別の厳しいのが芝居道だった。
九女八は、下谷《したや》佐竹ッ原《ぱら》の浄るり座や、麻布《あざぶ》森元《もりもと》の開盛座《かいせいざ》を廻り、四谷《よつや》の桐座《きりざ》や、本所《ほんじょ》の寿座が出来て、格の好い中劇場へ出るようになるかと思うと、また、神田の三崎町《みさきちょう》の三崎座に女役者の座頭《ざがしら》になってしまったりする。その上に、勧進帳のことで破門されたりして、九代目に芸を認めてもらえながら、引上げてもらう機運をはずしたのだと、もう、どうにもしようのない侘《わび》しさを、噛《か》んでいる。
「二銭団洲だって、歌舞伎座を踏んだのにな。」
台助は、はずみで、そんなことを言ってしまってから、しまったと思った。九女八が苦《にが》い顔をしたからだった。二銭団洲とは、下谷の柳盛座《りゅうせいざ》で、二銭の木戸銭で見せていた、阪東又三郎が、めっかちではあるが団十郎を真似て、一生の望みが叶《かな》って、歌舞伎座の夏休みのあきを借りて乗り出したことがあったのを、いかもの食いの見物が、つねづね噂《うわさ》に聞いた二銭団洲を見にいった。出しものは「酒井の太鼓」だったが、あとで座付き役者から物議が起ったことがあったりした、九女八にはいやな、ききたくないことなのだ。
「仕方がないよ、あたしは、はじめっから小芝居へ出てたものね。女役者なんて、あたしたちから出来たのだもの。」
九女八は、老《おい》ても色の白い、柔らかい足を出している、台助の足の小指に触《さわ》って見た。
台助は、艶々《つやつや》とした、額から抜け上っている頭の禿《はげ》かたも、柔和な、品の悪くない、いかにも以前《もと》は大問屋の旦那であったというふうな、鷹揚《おうよう》さと、のんびりした耳朶《みみたぶ》とを
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