持っている、どこか好色そうな老爺《としより》だった。
「大阪の千日前《せんにちまえ》へ芦辺倶楽部《あしベクラブ》というのが出来るそうで、師匠が出てくれるならば、月額千円は出すというのだそうだ。」
 九女八は、考え、考え、台助の小指をいじりながら、
「見世物小屋ではないでしょうかねえ。でも、お金が溜《たま》れば、も一度、何か、やって見る事も出来るでしょうから――」
「一年十二ヶ月、頭から約束しようというのだが――痛《いて》えよう。」
と、台助は足をひっこめた。
「そりゃそうと、繁《しげ》の井《い》を久しくやらないね。」
「染分手綱《そめわけたづな》ですか――繁の井をすると、思い出すものね。」
 弟子分《でしぶん》だった沢村紀久八《さわむらきくはち》が、お乳《ち》の人《ひと》繁の井をしていて、じねんじょの三吉との子別れに、あんまりよく似ている身の上につまされ、役と自分とのわけめがつかなくなって、舞台で気の狂ってしまったことを思い出すからだった。
 しかも、その、女役者紀久八は小説にもなり狂言にもなっている。佐藤|紅緑《こうろく》氏の「侠艶録《きょうえんろく》」の力枝《りきえ》という女役者は、舞台で気の狂った紀久八がモデルであった。小栗風葉《おぐりふうよう》だったかのに、「鬘下地《かつらしたじ》」というのがある。
「紀久八は舞台で気狂いになったが――あたしは舞台で死ねれば本望だ。なあに、小芝居だって見世物小屋だって、お客さまはみんな眼玉をもってらっしゃる。どんな人が見てくださってるかわかりゃしない。」
「じゃあ、まあ、とにかく、大阪の方の話は、出来そうな工合に、返事をしといてもいいね。」
 ――これは、もちっと後《あと》のことで、九女八はこの大阪から帰ってから後、大正二年の七月に、浅草公園の活動|劇場《しばい》みくに座で、一日三回興業に、山姥《やまうば》や保名《やすな》を踊り、楽屋で衣裳《いしょう》を脱ごうとしかけて卒倒し、そのままになってしまったのだった。大阪で溜《ため》て来た金は、九女八が、何か計画して考えていたことには用いられず、終焉《しゅうえん》の用意となってしまったのだが、台助は、そんな予感がしたのかどうか、ふいと、仕かけていたその談話を打ち切って、
「俺は、ちょいとその事で、出かけてくる。」
と着更《きがえ》をしかけたところへ、静枝が名刺を読みながら来て、
「お師匠さんの芸談を聴きに来た、演芸の方の記者《かた》らしいのですよ。談話《はなし》といてくだすった方が好いと思いますから、お逢いになってくださいな。」
と、婉曲《えんきょく》に、この名人の真相を残させたい、弟子の心やりですすめた。
「じゃあ、茶室へでもお通ししといておくんなさい。」
と九女八が言っているうちに、台助は玄関で、来訪者と摺《す》れちがいに、傘をさして、門の外へ出ていった。
「おや、お出かけですか。」
と、台助に声をかけたのは、通りかかった芝居道に通じている、芸人の間を歩き廻る顔の広い男だった。その男は、九女八の家《うち》の門口で、顔馴染《かおなじみ》の台助に逢うと、いま聞いてきたばかりの、煙《けむ》の出るような噂がしたくてたまらなくなったように、
「そういえば、御存じだろうが、あっしゃあ今聞いたばかりのホヤホヤなんだ。話は古いことだが、お宅の師匠は、以前《もと》、堀越《ほりこし》から、なんという名をおもらいなすってた。」
「升之丞ですよ。」
「そうだってねえ、守住さん。それについちゃあ、面白い話があるんだ、何時《いつ》、九女八とおなんなすった。」
「さあ、たしか、新富町《しんとみちょう》の市川左団次《たかしまや》さんが、謝《わび》に連れてってくだすって、帰参《きさん》が叶《かな》ったんですが――ありゃあ、廿七、八年ごろだったかな。」
「そこなんだよ守住さん、御勘気に触れて破門された時に、師範状を取上げに行ったのは、談州楼燕枝《だんしゅうろうえんし》(落語家《はなしか》)だったってね。それがね、宗家《そうけ》へおさめねえうちに、その師範状をなくしちゃったんだとさ、すっかり忘れてると、急に帰参が叶ったので、奴《やっこ》さん弱ったのなんのって、でね、九代目の女弟子で、もとが岩井粂八だから、粂の字を九《く》の宇と女《め》の字にした方がいいって、こじつけちゃったんだそうだが――滑稽《こっけい》さね。」
「へえ、そんなことがありましたんですかねえ。」
 台助は、傘を打つ雨を見上げた。上層《そこ》は晴れているのか、うす鼠《ねずみ》色の雲からこぼれてくる雨は白く光っている。
「ねえ、お前さん、この雨の工合は、九女八《うち》の芸のような――地震加藤とか光秀《みつひで》をやる時の――底光りがしてるじゃねえか。木下尚江《きのしたしょうこう》さんという先生は、日本にすぐれた女性
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