お師匠さんの芸談を聴きに来た、演芸の方の記者《かた》らしいのですよ。談話《はなし》といてくだすった方が好いと思いますから、お逢いになってくださいな。」
と、婉曲《えんきょく》に、この名人の真相を残させたい、弟子の心やりですすめた。
「じゃあ、茶室へでもお通ししといておくんなさい。」
と九女八が言っているうちに、台助は玄関で、来訪者と摺《す》れちがいに、傘をさして、門の外へ出ていった。
「おや、お出かけですか。」
と、台助に声をかけたのは、通りかかった芝居道に通じている、芸人の間を歩き廻る顔の広い男だった。その男は、九女八の家《うち》の門口で、顔馴染《かおなじみ》の台助に逢うと、いま聞いてきたばかりの、煙《けむ》の出るような噂がしたくてたまらなくなったように、
「そういえば、御存じだろうが、あっしゃあ今聞いたばかりのホヤホヤなんだ。話は古いことだが、お宅の師匠は、以前《もと》、堀越《ほりこし》から、なんという名をおもらいなすってた。」
「升之丞ですよ。」
「そうだってねえ、守住さん。それについちゃあ、面白い話があるんだ、何時《いつ》、九女八とおなんなすった。」
「さあ、たしか、新富町《しんとみちょう》の市川左団次《たかしまや》さんが、謝《わび》に連れてってくだすって、帰参《きさん》が叶《かな》ったんですが――ありゃあ、廿七、八年ごろだったかな。」
「そこなんだよ守住さん、御勘気に触れて破門された時に、師範状を取上げに行ったのは、談州楼燕枝《だんしゅうろうえんし》(落語家《はなしか》)だったってね。それがね、宗家《そうけ》へおさめねえうちに、その師範状をなくしちゃったんだとさ、すっかり忘れてると、急に帰参が叶ったので、奴《やっこ》さん弱ったのなんのって、でね、九代目の女弟子で、もとが岩井粂八だから、粂の字を九《く》の宇と女《め》の字にした方がいいって、こじつけちゃったんだそうだが――滑稽《こっけい》さね。」
「へえ、そんなことがありましたんですかねえ。」
 台助は、傘を打つ雨を見上げた。上層《そこ》は晴れているのか、うす鼠《ねずみ》色の雲からこぼれてくる雨は白く光っている。
「ねえ、お前さん、この雨の工合は、九女八《うち》の芸のような――地震加藤とか光秀《みつひで》をやる時の――底光りがしてるじゃねえか。木下尚江《きのしたしょうこう》さんという先生は、日本にすぐれた女性
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