市川九女八
長谷川時雨

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)草履《ぞうり》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)も一度|此処《ここ》でも

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ぬっ[#「ぬっ」に傍点]
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       一

 若い女が、キャッと声を立てて、バタバタと、草履《ぞうり》を蹴《け》とばして、楽屋の入口の間へ駈《か》けこんだが、身を縮めて壁にくっついていると、
「どうしたんだ、見っともねえ。」
 部屋のあるじは苦々《にがにが》しげにいった。渋い、透《とお》った声だ。
 奈落の暗闇《くらやみ》で、男に抱きつかれたといったら、も一度|此処《ここ》でも、肝《きも》を冷されるほど叱《しか》られるにきまっているから、弟子《でし》娘は乳房《ちぶさ》を抱《かか》えて、息を殺している。
「しようがねえ奴らだな。じてえ、お前たちが、ばかな真似《まね》をされるように、呆《ぼん》やりしてるからだ。」
 舞台と平時《ふだん》との区別もなく白く塗りたてて、芸に色気が出ないで、ただの時は、いやに色っぽい、女役者の悪いところだけ真似るのを嫌《いや》がっている九女八《くめはち》は、銀のべの煙管《キセル》をおいて、鏡台へむかったが、小むずかしい顔をしている渋面が鏡に写ったので、ふと、口をつぐんだ。
 七十になる彼女は、中幕《なかまく》の所作事《しょさごと》「浅妻船《あさづまぶね》」の若い女に扮《ふん》そうとしているところだった。
「お師匠さん、ごめんなすって下さい。華紅《かこう》さんが、他《よそ》のお弟子さんと間違えられたのですよ。」
「静《しい》ちゃん、その娘《こ》に、ばかな目に逢わないように、言いきかせておくれよ。」
 九女八は、襟白粉《えりおしろい》の刷毛《はけ》を、手伝いに来てくれた、鏡のなかにうつる静枝にいった。根岸の家にも一緒にいる内弟子の静枝は、他のものとちがって並々の器量《うつわ》でないことを知っているので、
「静《しい》ちゃん、あすこの引抜きを、今日は巧《うま》くやっておくれ。引きぬきなんざ、一度覚えればコツはおんなじだ。自分が演《や》るときもそうだよ。」
 静枝は――後に藤蔭《ふじかげ》流の家元《いえもと》となるだけに、身にしみて年をとった師匠の舞台の世話を見ている。
 名人と呼ばれ、女団十郎と呼ば
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