れ、九代目市川団十郎の、たった一人の女弟子で、九女八という名をもらっている師匠が、歌舞伎座のような大舞台を踏まずに、この立派な芸を、小芝居《こしばい》や、素人《しろうと》まじりの改良文士劇や、女役者の一座の中で衰えさせてしまうのかと、その人の芸が惜《おし》くって、静枝は思わず涙ぐんだ。
 鏡へうつる眼のなかのうるみを、見られまいとしてうつむくとたんに、九女八づきの狂言|方《かた》、藤台助《ふじだいすけ》が入口の暖簾《のれん》を頭でわけてぬっ[#「ぬっ」に傍点]と室《へや》へはいって来た。
「どうしたんだ、叱られでもしたのか。」
 そういうのへ、九女八は審《いぶか》しそうに顔を向けた。静枝へいっているのではないと思ったからだった。
「ははァ、からかったのはお前さんか。」
 九女八は、若い女《もの》へ調戯《からかい》たがる台助のくせを知っているので、口へは出さないが、腹の中でそう思っている。
「師匠、この次興行、浅草へ出てくれないかというのだが――」
 静枝は、台助の顔を、睨《にら》むつもりではなかったが、そう見えるほど厳しく下から見上げた。今もいま、師匠のかけがえのない好《い》い芸を、心の中で惜んでいたのに、このお爺《じい》さんは見世《みせ》ものの中へ出すのか――と思ったからだ。
「なんだ。二人とも、妙な面《つら》あするんだな。」
 座頭《ざがしら》へむかって、仮にも、狂言方が、そんな、いけぞんざいな言葉がいえるはずはないのだが、台助は九女八の夫で、しかも、九女八に惚《ほ》れ込んで、大問屋の旦那が、家も子も女房も捨て、小芝居の楽屋へ転《ころ》がり込んだという、前身が贔屓《ひいき》筋ではあるし、今も守住《もりずみ》さんで通っている亭主だったのだ。
「考えておきましょうよ。」
 女房の九女八は、女|団洲《だんしゅう》で通る素帳面《きちょうめん》な、楽屋でも家庭《うち》でも、芸一方の、言葉つきは男のようだが、気質のさっぱりした、書や画をよくした、教養のある人柄だった。
 馴《な》れてるとはいいながら、九女八の扮装は手早かった。水刷毛《みずばけ》をすると、眉《まゆ》は墨をチョンと打って指で引っぱる。唇《くちびる》の紅は、ちょいとつけて墨をさして、すッと吸っておくばかりだ。
 それでもう、生々《いきいき》した娘の顔になっている。子供のときから、御狂言師で叩《たた》き込んでいるの
前へ 次へ
全13ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング