でなければ出来ない。
「さあ、浜子さん、作曲してあげるかあげないか、出演は第二の問題。」
と、私は厳《きつ》く言った。なぜなら、この位な皮切りをした方が、彼女をお道楽芸にしておこうとするものへの、決戦的な――といおうか、大切にしている腫《はれ》ものへの大手術だと思ったからだった。
 ともあれ、その稽古所と、打合せの場処をつくらなければならない。私が、佃島《つくだじま》の家にいることがすくなくなって、新《あらた》に、母の住むようになった、鶴見《つるみ》の丘の方の家《うち》にいたし、佃島《しま》では出入りに不便でもあるので、小石川に大きな邸をもって、会計検査院に出ていたお父さんが歿《なく》なり、家督の弟|御《ご》が役の都合で地方にいるので、広い構えのなかに、ポツンと独りで暮している、若い時分は、詩文と、名筆で知られていた、浜節子という、これも浜子の古い仲良し友達で、朱絃舎の一員である人の、邸の表広間を借りることにした。
 で、便次《ついで》に、朱絃舎の門弟といえば、浜子の箏の耽美者《たんびしゃ》である、最も近しい仲の人たちばかりだった。それらが密接なつながりで垣《かき》をつくり、師の芸を盗むどころか、師の芸は伝えられないものとしてあがめている。この、浜節子さんは、年少のころから片上伸《かたかみのぶる》氏たちを友人にもっていたような、浜子には学問の友達である。彼女が泊りがけで、箏の稽古に横浜まで来る時には、リの字のようにふとんを敷くのだと笑った。節子さんは娘時代には、一|反《たん》半なくては、長い袖《そで》がとれなかったという脊高《せいたか》のっぽ、浜子は十貫にはどうしてもならなかったか細《ぼそ》い小さな体だった。私の妹の春子も、泊り込みの通い弟子で、浜子のお母さんからは料理、浜子からは箏を、ずっと教えてもらっていた。
 春のお魚《さかな》は鰆《さわら》、ひらめ、などと、ノートさせられて「今日午後六時の汽車にて帰す」と浜子が書き添え、認印《みとめ》を押してよこした年少のころ、浜子の母人《ははびと》はホクホクして、
「なんて可愛い、おとなしい子なのだろう。」
というと、浜子は、
「おしゃま猫が、いつまで猫をかぶるかしら。」
と笑ったりした。その春子も成人して、ぐっと逞《たくま》しくなってしまっていた時、「虫」の作曲の顔寄せがあったのだった。
 金屏《きんびょう》の前に、紫檀《したん》の台に古銅《こどう》の筒の花器《はないれ》、早い夏菊の白が、みずみずしく青い葉に水をあげていた。深い軒に、若葉がさして、枝の間から空は澄んで見えた時節だった。好《い》い毛氈《もうせん》の上に幾面かの箏が出されてある。猿之助は、黒の紋附きの羽織に袴《はかま》をつけて、
「荻原《おぎわら》さん、聴入れて頂きまして、ありがとうございます。」
と、手をついていった。浜子も丁寧におじぎをかえした。
 であるから、いかなる異変があっても、この約束は破れないと、私は信じた。が、遅れてはいって来た春子は、いかにも腹が立つように、苛々《いらいら》そこらを歩いて、唾《つば》を吐いたりした。猿之助は帰ったあとで、尺八の方の人が残っていたが、それも帰ると、浜子の芸術を冒涜《ぼうとく》するということを、彼女は雄弁に泣いて諭《いさ》めた。
 これは、春子を通して、浜子の周囲一同の代弁であったのかもしれなかった。後《あと》から来た浜子の手紙でも知れた。私は、それを、無理とは思わないが、世間見ずな思い上りだと思った。若い猿之助の悲憤を思いやった。慰めようもない思いでわびた。そのかわりに違約の責《せめ》をひいて、私は浜子と絶交すると言った。
 猿之助からの返事は、小生《しょうせい》ゆえに、長い友達と絶交してくれるなというのだった。
 私は、以前《まえ》から箏曲では「那須野《なすの》」が、すこしの手も入れないで、あのまま踊になるということをいつも言っていた。それで故|尾上栄三郎《おのええいざぶろう》が「踏影会《とうえいかい》」を市川|男女蔵《おめぞう》とつくった時に、浜子の地《じ》で上演したことがある。芒《すすき》すらあまり生《は》えない、古塚の中から、真白《まっしろ》の褂《うちぎ》を着て、九尾《きゅうび》に見える、薄黄の長い袴で玉藻《たまも》の前《まえ》が現われるそれが、好評であったので、後に、歌舞伎座で、菊五郎が上演しようとし、地の箏は朱絃舎浜子にと、随分と望み、浜子もその心持でいたのだが、その実現は見なかった。
 ともあれ、箏曲《そうきょく》の劇壇への進出は、朱絃舎浜子を嚆矢《こうし》とする。
       *
 大正五年世界大戦の余波は、我国の経済界をも動揺させた。横浜開港の時からの生糸商、野沢屋の七十四銀行の取附けとなり遂に倒産した。
 浜子の家《うち》では、当主賢吾氏が、子飼《こがい》から野沢屋の店に育ったので、生糸店とは別会社の、他《ほか》の重役たちのように策を施さなかったので、父親譲りの財産は、無償働《ただばた》らきのようにお店へかえしたとおなじことになって、預金はそのままになってしまった。しかも、浜子の父|平兵衛《へいべえ》が、長い間支配人として、どんなに店を富ませたか知れないので、莫大《ばくだい》もない慰労金が分けられることになったまま、父親が死に、主家の主人が二代つづいて死んだので、そのままになっていたのも、取らずじまいになってしまった。
「金持ちなんて、それは間違いだけれど、品物だけはどうにかこうにか、あるにはある。」
と、浜子はいっていたが、名物ものや、美術品などはさほどでないとしても、横浜開港時に手に入れた舶来品が、忘れてしまうほどあったのだ。切子《きりこ》の壺《つぼ》ばかりも、好いのが沢山あった。古い洋酒が、土蔵《くら》の縁の下にコロコロしていて、長持《ながもち》の中は、合紙《あいがみ》がわりに、信州から来る真綿《まわた》がまるめて、ギッシリ押込んであり、おなじような柄の大島がすりが、巻いたままで、幾本もはいっていて忘れたというふうであった。
「おやっちゃんに見せたことあるかしら、光琳《こうりん》の蒔絵《まきえ》の重箱を。」
と、いうと、賢吾氏が、二十五歳にもなるが、そんなのは私も見たことがないというようであった。
 炭は、土蔵《くら》の縁の下にも住居《すまい》の下にも、湿《し》けないようにと堅炭《かたずみ》が一ぱい入れてあるといった家《うち》で、浜子一代は、どんなことがあっても家に手を入れないですむようにと、壁の中にも鉄棒のしん[#「しん」に傍点]の入れてある念入りの普請《ふしん》を、父親は残しておいた。それらはみんな、大正十二年の震火災であともなくなってしまった。
「外国の保険だの、外国の銀行にあったものだのが、かえって、こっちでは、わからなくなってしまっても、ポツポツ先方《むこう》から知らせてくれて。」
と、彼女は言った。身をもって逃《のが》れて、路で草履《ぞうり》を拾って母にはかしたといったほど、何もかも失ってしまったが、秩序が回復すると、私たちにくらべれば、やっぱり閑《のど》かに暮してゆける人だった。
「お店がああなって、横浜にいなくって好いのだから、東京へ来るのに、家《うち》を売ろうかと思っているうちに――」
 邸は震火に失ってしまったのだ。彼女はあんまり用心深かったことがいけなかったといった。一ツひとつ、思出の深い箏《こと》も、みんな焼いてしまったが、思いがけない悦びは、芝の寺島《てらじま》(菊五郎家)氏から、衣類をもって見舞いにいった者が、家《うち》でも角の土蔵《くら》は焼けたが、母屋《おもや》や、奥蔵が残ってといって、お預りしてある箏も無事ですといった。
「おお、『若草《わかくさ》』が――」
 彼女は、すぐにも、『若草』という箏の絃に触れて見たい衝動を、おさえられなかったほどだった。
 数日の後、荻原一家は、神奈川台の島津春子|刀自《とじ》の家にいた。この人も長い間の、年長の友達であった。そして、小石川の浜節子の邸に落着いた。
 これも、友達である三菱《みつびし》の荘田《しょうだ》氏の令嬢である宮田夫人が、牛込余丁町《うしごめよちょうまち》の邸の隣地に、朱絃舎の門標を出させる家を造ってくれた。門をはいるとすぐ雷神木《らいじんぼく》があるのを、私が、坪内先生の御邸内《おやしきない》に建った文芸協会へ誘っていった時に、その木が、お住居《すまい》の門のすぐそばにある事を話したことがあったので、浜子は、すくなからぬ奇縁のように悦んだ。
 そのころ、坪内先生のお宅は、以前《もと》の文芸協会のあった方に建って、古いお住居や、お庭や、畑の方は荘田家で買いとり、小路《こみち》も新しくついていたが、まだ、先生のお家《うち》と朱絃舎の間には、空地《あきち》があって、大きな樹《き》が二、三本残っている。その樹の下のあたりで、浜子は坪内先生と行きあった。
 彼女ももうだいぶ年もとったし、震災にもあったりして、気が練れて来たので、
「あたくしは、狂言座で、『浦島』を作曲させて頂きました、荻原浜子でございます。」
と名乗りかけた。
「それは珍しいお方にあった。」
と、晩年の、坪内老博士は大層よろこばれたといった。お話は尽きなかったのであろう、その後で、例年のように届けてくれる、小田原《おだわら》の道了《どうりょう》さまのお山から取りよせる栗《くり》でつくったお赤飯を、母が先生にも差上げたいといったから、持参してお話をして来たと、感慨深そうにした。
 菊五郎門下の「菊葉会《きくようかい》」に、九条武子さんの作、四季のうちの「秋」に作曲したが、長安一片《ちょうあんいっぺん》の月、万戸《ばんこ》衣を擣《う》つの声……の、あの有名な唐詩の意味をよく作曲しだして、これはまとまった、情景そなわる名曲となった。私は、「虫」以来、彼女の作曲について遠ざかっていたが、「秋」の出来|栄《ばえ》をききにきてくれといわれ、出来がよかったので嬉しかった。
 彼女は、近年は殆《ほとん》ど、高橋|元子《もとこ》(藤間勘素娥《ふじまかんそが》)の舞踊|茂登女会《もとめかい》に出演し、作曲していた。元子のお母さん姉妹《きょうだい》も、浜子の友だちだった。元子も朱絃舎門下で、浜子の晩年の日記は、元子を恋人とさえ呼んでいたが、育ちゆく人々は、いつまでも彼女の秘蔵弟子、愛《いと》しい人形ではいなかったから、彼女は怏々《おうおう》と楽しまない日がつづいて、そのうちに坪内先生のお棺《ひつぎ》を送り、すぐまた、五十余年を、一日も傍《かたわら》を離れなかった、浜子の老母が、ぽくりと、それこそぽくりと、早朝《あさ》顔を洗いながら、臥床《ふしど》から離れる娘へ、
「羽織をひっかけないと寒いよ。」
と世話をやきながら、そのまま、うっぷして、娘と一緒の生涯を終ってしまった。
 それからの浜子、さびしそうだった浜子、来年は箏を弾いてから五十年になるから、祝いをしたいと思うといって来た浜子。小閑を得て訪《おと》ずれると、二階へともなって、箏を沢山たてた、小間《こま》の机の前でこういった。
「此処へ、上って、作曲するだけが楽しみであり、生きている気がする。」
 彼女の研究は、古楽《こがく》に、洋楽に、学問の方もますます深まっているようだった。何か素晴しい作《もの》を与えて、彼女の沈みきった心の灯《ひ》を掻《か》きたてなければならない――
 私がそう思った眼を見て、彼女は嬉しそうに、青い絃を張った箏をとりだした。
「これが、いつぞやお話した金井能登守《かないのとのかみ》の作の箏。」
 震災に、頭だけ、うっすら火をかぶったのを、名作と知らぬ持主が、売に出したものであろう、手に入れてよく調べると、胴の真ん中に銘があったのだ。
「能登守の作は、二面しか残っていないという記録があるから、そのうちのこれは一面です。好《い》いあんばいに、天人の彫りは無事で、焦《こ》げた箇所《ところ》は波形《なみがた》だけですが、その波形は彫《ほり》でなくって、みんな、薄い板が組み合せてあるのです。」
 その手のこんだ細工の波がたは、箏の縁《ふち
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