替手《かえで》というものとは違った意味で――」
 箏の調子を低くしろということは、これは凡手《ぼんしゅ》には言えないことだ。限りのある柱《じ》のおきかたであるから、低くするには、絃《いと》の張りかたをゆるめるよりほか手はない。してまた、ゆるめた絃は最も弾《ひ》きにくいのだ。第一、爪音《つまおと》が出ない、下手《へた》に強く爪《つめ》をあてれば柱《じ》が動き出す。
「荘重な音《ね》を出す工夫は――」
 鼓村師の独特の爪でなければ――だが、鼓村師のはまた格別な品《もの》だ。象牙《ぞうげ》の、丸味のある、外側を利用して、裂断《さい》た面の方に、幾分のくぼみを入れ、外側は、ほとんど丸味のあるままで、そして、爪《つま》さきの厚味は四分《しぶ》もあるかと思われる、厚い、大きな爪だ。それなればこそ、撫《な》でるような、柔らかな、霰《あられ》のたばしるような、怒濤《どとう》のくるような響き――あの幽玄さはちょっと、再び耳にし得ない音色《ねいろ》だった。
「あああれは、あの人でなければ出来ない。」
 そうはいったが、浜子も、その事も考えてもいたのだ。
「この音色で、非力《ひりき》なわたくしの爪音《つまおと》が、どこまで達しるかしら。」
 充分に、絃《いと》と、柱《じ》との融合を計ったうえ、浜子は研究の態度でいった。やれるかやれないかは、この、音の響きひとつであるという真剣さが溢《あふ》れていた。
 私は、縁側の障子を開いた。高みから見る横浜|関内《かんない》の、街々《まちまち》の灯は華《はな》のようにちらめいて、海の方にも碇泊船《ていはくせん》の燈影《ほかげ》が星のようにあった。次の間《ま》の境をあけると、家《うち》の人たちは、二人でむっつり帰って来て、燈もつけない室で、箏をとり出して、弾くのでもなく、何かもずもずやっているので、何ごとかと案じていたように、そっと来て様子を見ていた。
「こんど、菊五郎と、狂言座という研究劇団《もの》を組織して、帝劇で、坪内先生の楽劇『浦島』をやらせて頂けるので、浜子さんに、箏を引受けてもらいたいので――」
と、私は説明して、
「やってもらえるか、もらえないか。この音が、何処《どこ》まで響くか――出来る出来ないより、きこえないようなものが弾いたってしようがないというのです。」
 そう言い足すと、浜子は、その通りというように、絃に触れながら、頷《うなず》いた。
 浜子のお母さんほど好《い》い人はない。そして、浜子の養子さんの賢吾《けんご》さんもまた、それに劣らずよい人で、浜子の芸術に尊敬をもっている。
 お母さんは奥深い土蔵《くら》前に陣どり、賢吾さんや、女中たちは、外《おもて》へ飛出した。坂の下へいったり、邸の裏へ廻ったり、ずっとさきの角《かど》まで行ったりして、只今《ただいま》は低く、只今のはハッキリと聴えたと、幾返りか報告した。
 聴えないというものはない。箏の音とは、はッきりわかりませぬが、響きはきこえましたと、ずっと、さきの方へいったものまでが知らせた。浜子は、ほ、ほ、とそれが例の、こごむようにして笑って、
「あなたへの同情は、素晴らしいものだ。」
 それが、では、やりましょうという、返事のかわりなのである。
「まあ、まあ、まあ。そうでございますか、浜さんが、やると申しましたか?」
 顔中が、笑《え》まいでくずれそうにいう母|御《ご》へむかって、
「あなた方は、おやっちゃんが来たときから、気持に縛《しば》られてしまっていたのですよ。」
と、もう彼女は、楽劇「浦島」の初版本を出して来て、わたしのと突きあわしている。
 改めて私は、もう一度、一番低い音をきかせてもらった。
「この絃《いと》を、もう三本か五本足して、箏の丈《たけ》を、もう一尺ばかり長くして見ようか。」
 私の空想は飛拍子《とっぴょうし》もないことを言い出す。と、浜子は咄嗟《とっさ》に、
「わたしというものを、生み直させなければ、それは不可能でしょう。」
 彼女はクックッ、おかしそうに、機嫌よく笑っている。わたしは、人並より小さな彼女を見直していった。
「しようがないな。」
「ほんとにしようがない。これで勘弁しといてもらいましょう。」
 大正三年の二月、狂言座は、夏目漱石、佐佐木|信綱《のぶつな》、森鴎外、坪内|逍遥《しょうよう》、という大先輩の御後援をいただいて、鴎外先生は新たに「曾我兄弟《そがきょうだい》」をお書き下さるし、坪内先生は、「浦島」の中之段だけ、めちゃくちゃにいじるのを御寛容くださるし、松岡映丘《まつおかえいきゅう》氏は、後景《はいけい》、衣装を全部引きうけ、仲間になって下さった。これは、前回に書いた舞踊研究会の「空華《くうげ》」の時、松岡さんと、私の好みと、鈴木鼓村さんの箏曲《そうきょく》とがぴったりしたので、松岡さんが進んで会員となられたのだが、今度は、その松岡さんが随分お疳癪《かんしゃく》で、日文《ひぶみ》、矢ぶみで、わかるのは君だけだろうという詰問状がぞくぞくと来た。ずっと後《のち》になってから、
「わたしも年をとったから、もう疳癪はおこさないが、時雨《しぐれ》さんの疳癪もたいしたもんだ。」
 なぞといわれたが、過日、『源氏物語』劇化について、随分お骨折なされたにもかかわらず、良い結果を見なかったあとで、氏の顔を見た時に、当局の許可不許可にかかわらず、芝居道というものがどんなもので、疳癪を起してもどうもならないということを、さぞ不味《ふみ》にお味《あじわ》いになったことも多かったろう、当年の疳癪など、芸術家としての疳癪で、むしろ、思出は悪くないと思った。
 が、そういう大規模の中幕《なかまく》「浦島」の竜宮での歓楽と、乙姫との別れの舞踊劇は、浦島の冠《かむ》りものとか、履《くつ》とかあまりに(奈良朝期の)実物通りによく出来たので、首が動かせずさすがの菊五郎も踊れなくなってしまったりして、箏の作曲の評判はすばらしくよかった。
       *
「浜子さん、あなたは、自分の箏を、もっと生かして見る気はない。」
 病弱であった私は、何かしら、精一ぱいのことをしていなければ、生きている気のしない気質《たち》だったので、躯《からだ》の弱い彼女に、生きているかぎり、力一ぱいのものを残させたい気がして、ある日、差向いでいるときに言った。
「それは、願うことだけれど、――出来るかどうか。」
 そんなこんなで、彼女の箏曲を聴いてもらう会をつくるようになった。麹町《こうじまち》区|有楽町《ゆうらくちょう》の保険協会の地下室の楽堂で、大正九年に開催したのがはじめで、震災の年まで三回つづいた。私は文壇の人に主《おも》にお出《いで》を願った。
 浜子は、彼女の耳で、彼女の心で、鈴木鼓村の箏曲を認め師事したが、彼女はいちはやくも、朝鮮から帰り、上京したての宮城道雄《みやぎみちお》を若き天才と許していた。であるから、この浜子の箏を聴く会の、第一回だか二回目だったかの時、宮城氏に助演を乞《こ》うて、「唐砧《からぎぬた》」のうちあわせは、真に聴きものだった。会が終ると、彼女は眼の暗い宮城氏の手をとって、それは実に幸福そうに自動車へ導いていった。そして、花束を傍《かたわら》におきそのまま宮城氏を送っていった。
 浜子を主席にした卓《テーブル》へ帰って来たときの彼女は、実に生々《いきいき》して、はじめて見せる顔だった。まさに、この時分の彼女の爪音《つまおと》には、彼女の細い腕から出るものではない大きな、ふくみのある、深い、幅の広い音が出ていた。
「浜子は巧《うま》い。」
「浜子さんの箏は好《い》いなあ。」
 何処でも好い評判だ。
 菊五郎の、芝公園の家《うち》では、なんでも、しんみりと、浜子と宮城氏との合せものを聴きたいというので、ある夜、その会合があった。実際、あんな好い気持のものを聴く機会はそうあるものではない。と、今でも思出すほど、宮城氏の三絃と浜子の箏とが、流れる水のように、合し、むせび、本流となり、あるいは澱《よど》む深味へ風が過ぎてゆくようになったりする音色《ねいろ》は、曲が止んでも、弾いたものも聴くものも、消えてゆく、去りゆく音を追って、すぐ、果敢《はか》なくも思出となってしまう脆《もろ》さを、惜しむ思いにホロホロとする気持に浸っていた。
 朱絃舎《しゅげんしゃ》――そんな名を選んだのも、その時分のことだった。「朱絃」という名の定《き》まるまでには、どんなにさまざまの名がえらまれたか知れない。私の大形ブックの幾|頁《ページ》かも、古い詩句の中から、およそ、これはと眼にとまり、心にとまるものを抜きだして、書いておいたか知れないのだった。
 前にも書いたかも知れないが、彼女が、何処か『源氏物語』のなかの、明石《あかし》の上《うえ》に似ているので――気質もそうであれば、箏の名手でありながら、我から聴かそうとは決してしない。それに、容貌《きりょう》も立ちまさっているのではないが、人柄が立ちまさって見える点など、私は、彼女にそんな事をいったこともある。彼女もその評は、嬉しくないこともなかったのだ。そしてまた、彼女の趣味も、その精神《おおね》は、王朝時代のものであった。私は、もちっと古く遡《さかのぼ》って、もっとずっと、今日《こんにち》よりも新らしくと言うので、ともするとくいちがうのだが、「朱絃」は、ともかく納まった。彼女の門下はみな、朱絃――朱《あか》い絃《いと》の十三絃をもちいることにした。
 覚悟はよいか? そんなことばではないが、私は時おり、もはや、後退してはならないと、生活に余裕のありすぎる彼女に、回避的になりがちな用心癖を警戒した。が、それほど熾烈《しれつ》に、芸術的良心をもたぬ人々の間には、彼女が軌道に乗って、乗りだしてゆくのが不安にもなった。古い側の人の悦びは、困らない奥さんの芸であって、名人だとされればそれだけでよいというようなところもあった。また、あまり彼女を惜みすぎて、名物茶入れのように箱に入れて、あんまり人目に触れさせないのを、もっとも高貴であると考えるものも出来てきた。
 彼女は私にむかって、若い夫人をもって、物質のためにいらいらしていた鼓村さんのことを、よく、こんなふうにいった。
「鼓村さんが、盲目になったら、どんなに名人になるだろうに。」
と、わたしはすぐ、
「浜子のうちが金持ちでなくなると、どんなにこの人は好《よ》くなるかしれないだろう。」
 その時分のことだった。市川猿之助が、明治座で、「虫」という新舞踊を上演したいが、尺八と箏でやって見たいと相談をうけた。「空華《くうげ》」の時のこともあるし、箏は浜子に頼みたいといった。
 オー・イエス! 私は嬉しく心楽しいとき、よくこんなことをいう。猿之助もよく踊らせたい。それに、劇場で、箏を主とし、しかも、あの、芸術的香気の高い、いわゆるお賑《にぎ》やかなケレンの多くない、まことに、どっちかといえば手のこまない、一本一本|絃《いと》の音をよく聴かせようとする、テンポの早くない箏を、用いさせようというのには、よほど劇場当事者によい印象を与えていることを思わなければならない。これは、真の箏曲というものを、一般に認識させる上に、非常な良好な機会だと思った。しかし、また、冷静に考えて、「虫」であるというには、尺八《ふえ》が主になることもあり得べきことだが、尺八《ふえ》ばかりではまとめてゆけないから、ある部分は尺八《ふえ》に譲っても、結局箏を主にすることになると考えた。
 猿之助も、その間《かん》のことはよく知っている。
「浜子さんをお願いする以上、あの方の芸術、あの方を、いわゆる芸人あつかいには決してしません。あの方が、好意をもって出てくださることを、『虫』は別番附《べつばんづけ》にしますから、あの方の待遇は別に御出演下さる口上《こうじょう》を書いて添えます。座方《ざかた》からも、決して失礼のないように、楽座の席も別につくらせます。それでもいけなければ、作曲して下さるだけでもよいから。」
 私は、猿之助の気持を嬉しいと思った。そこまでに事を運び、主張を通すのは、なかなかな誠意
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