ん》女中を連れて游《およ》ぎに行くと出ている。
 それも無理のないのは、その辺、紅毛人《こうもうじん》の散歩場なのでもあるし、つい先ごろまでは、人中で肌などあらわすようなことは、死んでもしないというふうに女はしつけられていたのだから、白昼衆目の見る前で、島田の娘の水泳ぶりには、記者も驚いたのであろう。
 だが、また、佃島《つくだじま》から、渡舟《わたし》でわたって来た盆踊りは、この界隈《かいわい》の名物で、異境にある外国人《とつくにじん》たちを悦ばせもした。そうかと思えば、島原の芝居は炎暑で不入り、元金七千円金が、昨日の上《あが》り高《だか》では千五百円の大損、それに引きかえて、同所の、火除《ひよ》け地へ、毎夜出る麦湯《むぎゆ》の店は百五十軒に過ぎ、氷水売は七十軒、その他の水菓子、甘酒、諸商人の出ること、晴夜《せいや》には、半宵《はんしょう》の物成高《うりあげだか》五百円位、きわめて景気よしともある。
 なんと、蝦夷錦《えぞにしき》のように、さまざまな色彩の錯合ではないか――それらの人々の頭の上を照らすのに、
 美なるかな、明《めい》なる哉《かな》、街頭に瓦斯《ガス》ランプ立つ。これで西洋の市街に負けぬという見出しで、
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美なるかなランプ、明《あきらか》なるかなガスランプ、一度《ひとたび》点じ来て、我々の街頭に建列するに及びてや、満街白昼の観をなさしむ。これに次ぐものはオイルランプなり、これまた一行人《いちこうじん》をして、手に提燈《ちょうちん》を携ふの煩《はん》とわかれしむ。
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といっている。新富座はもとより新設備を誇りにしている。当時流行の尖《せん》たん花ガスは、花の形《かた》ちをした鉄の輪の器具の上で、丁度|現今《いま》、台所用のガス焜炉《こんろ》のような具合に、青紫の火を吐いて、美観を添え、見物をおったまげさせていたのだ。
 そこで、この間《かん》、明治四十年に至るまでには、新富座興亡史があり、歌舞伎座が出来上り、晩年は借財に苦しめられた守田勘弥《もりたかんや》が歿《な》くなってしまうと、新富座は子供芝居などで、からくも繋《つな》いでいるような時もあった。
 その新富座の茶屋|丸五《まるご》の二階。盛時を偲《しの》ばせる大きな間口《まぐち》と、広い二階をもったお茶屋が懇意なので、わたしは自作の「空華《くうげ》」という踊りの地方《じかた》の稽古所《けいこじょ》に、この二階をかりてあてた。
 試演は歌舞伎座で催すのだが、沢山の人を集めた和楽オーケストラなので、広い場所でなくっては稽古が出来ない。この丸五の二階で、幾日も幾日も、みんながお弁当を食べた。
 主として箏《こと》をもって、この歌劇風の「空華」の気分を出そうという最初の試みなので、作曲者の鈴木鼓村氏は、私の母がいる箱根へいって、頭を冷し、気分を統一して、そして漸《ようや》く出来あがったのだった。
 それを創意のまま鼓村さんが弾《ひ》くのを、受取ってくれるのが浜子であった。彼女は、一度聴いていて、膝《ひざ》の上で右の薬指を軽く打っているが、直《じき》に正確な譜にうつした。鼓村さんは弾いてしまうと、その次には、例の、気分によって弾奏の手がちがうのだった。
 末《すそ》の方へいって伴奏に三味線がはいるのを、長唄《ながうた》研精会の稀音家和三郎《きねやわさぶろう》が引きうけていた。少壮気鋭だった三味線楽家は、この試みが愉快でならないのだが、そんなふうで、鼓村さんとは合せるたびに、ぴったりしていたのがそう行かなくなる。
 箏《こと》の方の弾手《ひきて》も多い。長唄三味線の方も多い。歌は、音蔵《おとぞう》という立唄《たてうた》いの人の妹で、おかねちゃんという、それは実に好《い》い声の娘と――その人は惜しくも亡くなったが――その姉さんとが主であった。岡田八千代さんも箏の方を助けてくれた。
 とにかく、私の友達は、この仕事にみんな手つだってくれた。踊りの方は市川猿之助が主役、女の方の主役は、堀越|実子《じつこ》――市川|翠扇《すいせん》という女優の名で出演し、七人《ななたり》の舞女《ぶじょ》は、そのころの新橋七人組といわれた、小夜子《さよこ》、老松《おいまつ》、秀千代《ひでちよ》、太郎、音丸《おとまる》、栄竜《えいりゅう》、たちだ。この組はこの組で、浅草|千束町《せんぞくちょう》の市川段四郎氏自宅の舞台と、歌舞伎座案内所の表二階とで稽古《けいこ》していた。
 楽座の方は、曲の打合せが重なるほど、面白い出来ごとがあった。とうとう、ある日、箏と三味線の正面衝突となって、和三郎がカンカンに怒り出す。鼓村さんは、幾杯もコップの水を呑《の》んだが、それでも熱して、そら豆のゆでたのを盛った大どんぶりのからになったのに、これに水をくれといって、水が運ばれた来たのも知らずに弾いていたが、
 ――そんなこというて、わしゃあ――
と、言うが早いか、どんぶりの水を口にもってゆかずに、一、二|分《ぶ》苅《ぶ》りの赤い熱頭《にえあたま》の上へ、こごんだまま、ザブッとぶっかけてしまった。
 箏の上である。夕立ちのように水は落ちた。それも知らないで彼は熱中している。和三郎は小腕をまくって、ブルブル慄《ふる》えながら、冷静をとりもどそうとして、煙管《キセル》に火を点《つ》けたが、のぼせているので火皿《ほざら》の方を口へもっていった。
 みんな、座中のものは、びっくりしたように、おかしさもおかししではあるが、気の毒さで押だまってしまっていた。
 と、その時、その騒ぎと引き離れて、膝《ひざ》の上に箏尻《ことじり》を乗せ、片手で懐紙に書いた譜を見ながら弾きだしたのは浜子だった。彼女は、喧嘩《けんか》には捲《ま》きこまれず、両方の言い分をきいて、両方の譜を、その争いのなかからうつしとって、合うように接合してしまっていた。
 浜子が弾きだすと、和三郎は煙草を止《や》め、鼓村も弾く手を伏せて聴いた。
「あ! それなら好《い》い」
 そう叫んだのは和三郎だ。
「ああ、そや、そや。なんじゃ、それじゃったわい。」
と、鼓村さんも叫んだ。
 みんなの顔に、ホッとしたくつろぎが浮び、同時に誰も彼もの笑いが爆発した。
「なんのこった。」
と、呟《つぶや》きながら、和三郎は三味線をとって、浜子の方へ、せわしなくむき直った。鼓村さんは、例の首をひっこめて、きまりわるそうに、箏にかかった水の始末を、弟子たちにしてもらった。
 みんなが、急に景気よく、しゃべったり笑ったり、揶揄《やゆ》したりするなかで、浜子だけは、別天地にいる人のように、すこしも動揺されず、直《じき》に最後《しまい》まで完全につくりあげてしまった。
「ほんのこというと、まだよう、まとまっていなかったのじゃ。」
 鼓村さんは、自分だけでなら、どんなふうにも弾けるので、癖になってしまってて、困ると自分でこぼして、気持ちが軽々《かるがる》したように、
「浜子さん、有難う有難う、助かったわい。」
と機嫌よく言った。
 その時、わたしは、浜子は、ひっこみ思案なのだが、大きなものの作曲も出来ると信じた。
 千束町の喜熨斗《きのし》氏の舞台へ、私と、浜子と鼓村さんと翠扇さんとが集った時、猿之助役の大臣《おとど》の夢の賤夫《しずのお》と、翠扇役の夢に王妃となる奴婢《みずしめ》とが、水辺《みずのほとり》に出逢うところの打合せをした。猿之助の父は段四郎で踊りで名の知れた人、母のこと女《じょ》は花柳《はなやぎ》初代の名取《なとり》で、厳しくしこまれた踊りの上手《じょうず》。この二人が息子のために舞台前に頑張《がんば》っている。鼓村さんは息子が踊りで叱《しか》られるのまでハラハラして、その方へ気をつかうので、琴柱《ことじ》をはねとばしたりした。
「おや、おや、どうも。この方が乱れて――」
と、温厚な段四郎は、微笑しながら飛んだ琴柱を拾いに立った。可愛らしい鼓村は、大きな、入道《にゅうどう》のような体で恐縮し、間違えると子供が石盤《せきばん》の字を消すように、箏の絃《いと》の上を掌《てのひら》で拭《ふ》き消すようにする。
 浜子の方に狂いはない。その日の帰りに、千束町を出ると夜暗《よやみ》の空に、真赤な靄《もや》がたちこめて、兀然《こつぜん》と立ちそびえている塔が見えた。
「あれは、なんだろう。」
 私は、すこしぼんやりしていて、見詰めて立ちどまった。
「公園裏の方にあたるから――十二階でしょうよ。」
「ああ、凌雲閣《りょううんかく》?」
 まあ、なんて綺麗なのだろうと、二人は夜の、浅草公園の裏から見る、思いがけない美観に見とれた。
 ――楽劇「浦島《うらしま》」!
 私の頭のなかに、いつか手をつけて見たい、大きな望みがその時、かすめて過ぎた。
 楽劇「浦島」の一部分上演を、坪内先生から許されたのは、それから二、三年|後《のち》だった。
 浦島は六代目菊五郎、狂言座第一回を帝劇で開催するときだった。
 作には、箏《こと》の指定はないのだ。各種の三味線楽と、雅楽類だったのだが、私は、おゆるしをうけて、浜子の箏を主にして、三味線は一中節《いっちゅうぶし》の新人西山|吟平《ぎんぺい》、雅楽は山之井《やまのい》氏の一派にお願いしようとした。
 だが、なんといっても箏の浜子を説きおとすことが一番の難関なのだ。
 わたしはぶらりと行って、なんでもないような顔をして、彼女を散歩に引き出した。伊勢山《いせやま》の太神宮《だいじんぐう》の見晴しに腰をかけた。
「何をそんなに眺めているの。」
「海を。」
 彼女は、何かわたしが計画《たくら》んでいるなと見破っていた。わたしが突然に行って、歩こうなぞということから例外すぎるのだったから。
「海なら、佃《つくだ》からでも、あたしの宅《うち》の座敷からも見えるのに。」
「うん、でも、歩いて見たかったの、芒村《のげむら》から、横浜|新田《しんでん》を眺めた、昔の絵が実によかったものだから。」
 そんなことつけたりで、先刻《さっき》、横浜駅前の(現今の桜木町《さくらぎちょう》駅)鉄《かね》の橋を横に見て、いつもの通り、尾上町《おのえちょう》の方へ出ようとする河岸《かし》っぷちを通ると、薄荷《はっか》を製造している薄荷の香《にお》いが、爽快《そうかい》に鼻をひっこすった、あのスッとした香《か》を思いだして、私は一気に言った。
「坪内先生の浦島ね、竜宮のところだけ、作曲してもらいたいの。」
「だめ、だめ。」
 浜子は強い近眼鏡を光らして、呆《あき》れたように、
「あなたは、あたしを買いかぶりすぎている。」
「いいえ、臆病だとさえ思っている。他《ほか》の人は、七、八|分《ぶ》もった才能を、十二分にまで見せている。浜子さんは、十二分にもっているものを、一、二|分《ぶ》しか見せない。それも、よんどころない時だけにね、けちんぼ。」
 それっきりで、二人は黙りあって、いつまでも腰をかけていた。日が暮れかかると、どっちからともなく立って歩きだしたが、口はきかない。

       三

 日はすっかり暮れかけていた。黙ってさきへ立って、浜子が導びいた広間のうちは、一層たそがれの色が濃かった。
 浜子は、壁によせて立ててある「吹上《ふきあ》げ」という銘《な》のある箏《こと》に手をかけていた。「吹上げ」の十三本の絃《いと》の白いのが、ほのかに、滝が懸かったように見えている。
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吹上げの浜の白《しら》ぎく
さしぐしの夕月に――
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 とか、なんとか、わたしが即興詩を与えたことがあったが、その、朝と夕べとの小曲の作曲が、どうも気に入らないといって、どうしても聴かせてくれないので、わたしも、その歌を忘れてしまっている箏だった。
 浜子は言った。
「調子は?」
 それは、やるともやらないとも、返事を口にしないが、たしかに「浦島」の作曲についていっているに違いなかった。
「変えなければいけないでしょう、今までになかったのでもよろしい。そして、音を複雑にするために、高いのと低いのがほしい。以前《もと》からある
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