へおりて見ると、小篠《こざさ》の芽が、芝にまじって、健《すこ》やかな青さで出ていた。そのかげを赤い小蟹《こがに》が、横走りに駈《か》けたり、鋏《はさみ》で草を摘んで食べている。
 浜子さんの噂をあんまりしたが、あれで、鼓村さんに浜子という人の並々でない気性がわかってもらえたかしらと、かいなでの弟子と見てもらいたくない気で、よけいなおしゃべりをしたのが、軽い憂鬱《ゆううつ》でもあった。
 彼女の家《うち》は、横浜の、太田|初音町《はつねちょう》の高台にあって、彼女の書斎の二階からも、下の広間の椽側からも、関内《かんない》のいらかを越して、海が遠くまで見えるのを思ったりしながら、わたしは、蟹を下駄のさきでおどろかしていた。

       二

 新富町《しんとみちょう》の新富座の芝居茶屋《おちゃや》に――と、いっても、震災後の今日《こんにち》では、何処《どこ》のことか解りようがない。
 銀座から行って、歌舞伎座の次の橋を越して、も一ツさきに築地橋《つきじばし》という電車の止まるところがある。
 この、築地橋の下を流れる川の両岸は、どっちから行っても佃島《つくだじま》へむかう、明石町河岸《あかしちょうがし》へ出た。浜方《はまかた》の魚場《いさば》気分と、新設された外人居留地という、特種の部落を控えて、築地橋|橋畔《きょうはん》の両岸は、三味線の響き、粋《いき》な家《うち》が並んでいた。夕汐《ゆうしお》の高い、靄《もや》のしめっぽい宵《よい》など、どっち河岸を通っても、どの家の二階の灯も艶《なまめ》かしく、川水に照りそい流れていた。咽《むせ》ぶような闇《やみ》のなかを、ギイと櫓《ろ》の音がしたりして、道路《おうらい》より高いかと思うような水の上を、金髪娘を乗せたボートが櫂《かい》をあげて、水を断《き》ってゆくのだった。
 その、橋の向う角の一角を、東京の者は島原《しまばら》といった。そこにある新富座という劇場のことも、島原という代名詞でいった。
 あたくしが幽《かす》かに覚えているのだから、明治も中期のことであったろうが、この劇場と、芝居茶屋の前に、道路に桜が植えられ、燈籠《とうろう》がたったほどこの一角は、緋《ひ》もうせんと、花暖簾《はなのれん》と、役者の紋ぢらしの提燈《ちょうちん》との世界であった。尤《もっと》も、演劇改良の趣意で建設当時には、花暖簾も提燈もやめさせ、板の看板だけにしたというが――
 芝居の裏通りや附近には、有名な役者たちが住み、音曲《おんぎょく》の方の人たちも、その一角のなかかその近間《ちかま》にいた。櫓下芸妓《やぐらしたげいしゃ》もあるといったふうで、四囲の雰囲気は、すべてが歌舞伎国領土であった。
 新島原という名は、京都で有名な、島原遊廓から来たものであったろう。あまり短命だったので、知れていないが、明治二年に、あの土地へ遊廓が許されて、新島原が出来かかったのだが、次の年の秋に大暴風雨があって、中万字《なかまんじ》という妓楼が吹き倒され、遊女が八人も怪我《けが》をしたので、遊廓の未完成のまま立退《たちの》きを命じられた。
 新富座の前名の守田座は、その島原へ建った。もともと、遊廓と芝居は離れない因縁をもっていて――歌舞伎の創業時代に遊女が小屋がけをしたことなどをいっていると、それだけでも長くなるが――江戸開府のころ、日本橋区人形町附近の、葭《よし》の生《は》えているような土地を埋めたてたりして、葭原《よしわら》という廓《くるわ》が出来、住吉町《すみよしちょう》、浪花町《なにわちょう》などと、出身地の地名をかたどった盛り場となり、その近くへ芝居小屋が建築されたそれが、いわゆる三座と称せられた江戸|大劇場《しばい》の濫觴《らんしょう》で(中村座、市村座、山村座。そのうち山村座は、奥女中|江島《えしま》と、俳優|生島新五郎《いくしましんごろう》のことで取りつぶされた)、堺町《さかいちょう》、葺屋町《ふきやちょう》にあった。大火後、遊廓は浅草|田圃《たんぼ》へ移され、新吉原となり、芝居だけ元の土地に残っていたが、ずっと下《くだ》って天保《てんぽう》十三年に、勤倹令を布《し》いた幕府の老中、水野|越前守《えちぜんのかみ》が、中央に芝居小屋などのあるのはもってのほかのこと、御趣意に反《そむ》くというわけで、浅草|猿若町《さるわかちょう》へ転地させられた。
 そのころ、京橋|木挽町《こびきちょう》にあった守田座が、猿若町に立並んで三座となったが、この、守田座は、委《くわ》しくいえば、もとから、芝居は四座あって、守田座だけが別の土地に離れていたので、これも古い名ではあるが、十一代目を継いだ――下総《しもうさ》あたりのお百姓から出て、中村|翫右衛門《がんえもん》と名のった、あまり上手でない役者が座元の養子になり、その子の十二代目|守田勘弥《もりたかんや》を、子供の時分からその道に暁通《ぎょうつう》するように育てた。
 その人が、演劇道に有名な守田勘弥という策士で、明治維新後の情勢を見て、帝都の中心地となる京橋へ劇場進出を目論《もくろ》んだ。元来木挽町は、以前の土地ではあるし、木挽町へ劇場を建てようという運動は、それよりも一足さきに、これもおなじ土地にあった河原崎座《かわらざきざ》が采女《うねめ》が原《はら》へ新築許可を願い出ていた。これはたぶん、目下《いま》の歌舞伎座の辺《あたり》であったろう。――河原崎座主、河原崎|権之助《ごんのすけ》は、九世団十郎が、市川|宗家《そうけ》に復帰しない、養子にいっていた時の名――現今《いま》でもあのあたりは、歌舞伎座、東京劇場、新橋演舞場が鼎立《ていりつ》している。
 守田座移転は明治四年だというが、新富町新富座という、堂々たるものになったのは、九年|霜月末《しもつきすえ》に焼けてから再築し、十一年春に、西南戦争を上演して大入《おおいり》をとってからだ。
 明治十年の西南戦争は、明治政府の功臣たちの間の争いであり、兵の組織も新式になってからであるから、薩南《さつなん》の地であったとはいえ、朝野《ちょうや》を挙げて関心をもっていた。西郷隆盛《さいごうたかもり》は、江戸人が恩人として尊敬し、愛していた大人物だった。その人の最後を知ろうとするものが殺到したのだから、大入りだったわけだ。しかも、この戦争劇が、守田勘弥を上流人に接近させる便宜を得させたのだった。
 芝居人と紳士、学者との交際が対等になった。それは明治の諸政一新という御思召《おぼしめし》により、四民平等の恩典に浴したためではあるが、西南戦争劇上演のために、薩南の事情を明らかにするには、当時の顕官に接近せざるを得ない。もとよりその機を望んでいた勘弥が、取り逃すようなことはしない。新富座主の豪遊する、木挽町の待合《まちあい》は、明治顕官の遊ぶところで、当時の待合のおかみ、芸妓《げいしゃ》たちは、お客の顕官を友達のように思っていたりするので、勘弥とその人たちを結びつかせた。
 時は、洋行帰りの新人や、学者たちの間に、丁度演劇改良熱の勃興《ぼっこう》しつつあったおりで、勘弥はその機運をいちはやくも掴《つか》んだのだ。で、新富座本建築のときは、四十二軒あった附属茶屋を、大《おお》茶屋の十六軒だけ残して、あとは中《ちゅう》茶屋も廃した。間口《まぐち》の広い、建築も立派な茶屋だけ残したのだから、華やかなはずだった。
 つい十年ほど前の、旧幕時代には、芝居者は河原乞食と賤《いや》しめられ、編笠《あみがさ》をかぶらなければ、市中を歩かせなかったという。差別待遇が甚《はなはだ》しかったため、七代目団十郎(隠居して海老蔵《えびぞう》、白猿《はくえん》と号す)は、
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錦《にしき》着て畳の上の乞食かな
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と白《もう》したほどのばからしさが、新富座開場式には、俳優の頭領市川団十郎をはじめ、尾上菊五郎、市川左団次から以下、劇場関係者一同、フロックコートで整列し、来賓には、三条|太政大臣《だじょうだいじん》を筆頭に、高級官吏、民間名士、外国使臣たちまで招待したのだった。
 それからの新富座は、外賓接待には洩《も》らされない場処《ところ》となって、ドイツ皇孫ヘンリー親王の来朝の時から、我国の宮殿下方《みやでんかがた》もお揃《そろ》いにて成らせられ、その時の接待係は、鍋島《なべしま》、伊達《だて》の大華族であり、そのあとへは香港《ホンコン》の太守《たいしゅ》、その次へは米国前大統領グラント将軍という順に、国賓たちを迎えた。
 欧風熱は沸騰して、十二年の九月には、外国役者の一座、英、米、仏人混合の一座をかけたりしたが、言葉がわからないので一般には不向きで不入りだったという、種々《いろいろ》の経緯はあったが、新富座は劇道人の向上にはたいした役割をもった。その後、麻布鳥居坂《あざぶとりいざか》の井上邸で、天覧芝居という、破天荒の悦びをもつことになったのだ。
 読者は、本文と、関係もなさそうなことを、なんで長々と書いているのだと、お思いになるかもしれない。この辺で、閑話休題と書くところなのだろうか、実はなかなか閑話休題どころではない。
 明治十二、三年から、浜子の生れた十四年以降の、劇界の開展は、こんな時代だったのだが、すべての世の中も、またこんなふうな発展進歩の途《みち》をとっていた。新富座主が新機運を掴《つか》んだ機智と並んで、劇界の大明星であった、九世市川団十郎の人格、識見――伝統的|大立物《おおだてもの》の風格が、当時の学者、識者、貴顕たちに、自分たちの埒外《らちがい》の分野から同格者を見出《みいだ》した欣《よろこ》びを以《もっ》て尊敬し迎えいれられたことが見|逃《のが》せない。団洲とよび、三升《さんしょう》とよび、堀越《ほりこし》と呼び、友達づきあいの交わりを求め許した。そして、団十郎以外にも、彼にならんで名人菊五郎のあることも知った。
「勧進帳」その他が、明治天皇陛下、皇后宮《あきのみや》、皇太后の宮と、天覧につづき台覧《たいらん》になったことは、劇界ばかりではない、諸芸の刺戟《しげき》になったのだ。ことに、堀越家とは姻戚《いんせき》に、荻原《おぎわら》浜子の母方はなっている。浜子が八歳の明治廿一年には、末松青萍《すえまつせいひょう》氏たちの演劇改良の会が(末松氏は伊藤|博文《ひろぶみ》の婿)「演芸矯風会」に転身して、七月八日に発会式を、鹿鳴館《ろくめいかん》で催し、来賓は皇族方をはじめ一千余名の盛会で、団十郎氏令嬢の、実子《じつこ》と扶貴子《ふきこ》が、浜子とあまりちがわない年齢で、税所敦子《さいしょあつこ》――宮中女官|楓《かえで》の内侍《ないし》――の作詞を乞《こ》い、杵屋正次郎《きねやしょうじろう》夫妻の節《ふし》附け、父団十郎の振附けで踊っている。
 ここに、見逃せない事実は、女性進展の機運が、著るしくみなぎって、こうした方面にも、立《たて》ものの娘だからということばかりではなしに、女優というのが、なくてはならないと、たとえ泰西《たいせい》の模倣そのままでも、論じられていもしたのだ。
 そんなことを細かく言っていたらば、一篇の、風俗史的な女性発展史になってしまうから、それこそ閑話休題であるが、面白いのは、新富座が越して来て間もない、明治八年ごろの、築地《つきじ》風俗に、こんな日常時|小話《しょうわ》がある。
 当時の新聞からとって見ると、
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雪の肌《はだえ》に滴々《てきてき》たる水は白蓮《びゃくれん》の露をおびたる有《あり》さま。
艶々《つやつや》したる島田髷《しまだまげ》も少しとけかかり、自由自在に行きつもどりつして泳ぐさまは、竜《たつ》の都の乙姫《おとひめ》が、光氏《みつうじ》を慕って河に現じたり。また清姫《きよひめ》が日高川《ひだかがわ》へ飛びこんで、安珍《あんちん》を追ったときはこんなものか、十七や十八で豪気なもの。
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と、合引橋《あいびきばし》の泳ぎ場《ば》で、新富町の寄席《よせ》、内川《うちかわ》亭にいる娘が泳いでいたのを、別品《べっぴ
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