るのです。彼処《あすこ》のうちの台所は、とても立派な、調理用ストーブが並んでいるし、井戸は坐っていて酌《く》めるように、台所の中央《まんなか》にあるし、料理は赤堀先生の高弟で、洋食は、グランド・ホテルのクック長が来ていたから、おばさんの腕前は一流です。それに、山谷《さんや》の八百善《やおぜん》は妹の家《うち》ですから――」
江戸《えど》の味覚は、浅草山谷に止《とど》めを差すように、会席料理八百善の名は、沽券《こけん》が高かったのだった。
「浜子さんが、ムッと黙っているので、おばさんが、その代りにニコニコ、ニコニコして、阿亀《おかめ》さんがわらっているように、例《いつ》も笑い顔をしてるでしょう。」
「そうや、そうや。」
鼓村氏は、浜子が体が弱いので、転地ばかりしているから、その時持ってゆくのに具合の好《い》い、寸づまりで、幅の広い箏を、正倉院《しょうそういん》の御物《ぎょぶつ》の形《かた》ちを模して造らせた話をした。
「箏の裏板へ大きな扉《とびら》をつけて、あの開閉で、響きや、音色《ねいろ》の具合を見ようという試みね、巧《うま》くいってくれればようござんすね。」
あの箏の、裏板のバネを鼓村師が考えていることも、わたしは知っていた。
「あれは、わしも期待しています。わしゃあ、日清《にっしん》戦争に琵琶《びわ》を背負っていって、偉く働らいたり琵琶少尉の名も貰《もろ》うたりしたが、なんやらそれで徹したものがあって、京極流も出来上ったが、あの人は、なんであんなに、箏にはいっていったものかなあ。」
わたしの眼に、ふっと、一文字国俊《いちもんじくにとし》の刀《かたな》が見えた。と同時に、横浜の家《うち》の、土蔵《くら》の二階一ぱいの書籍の集積が思い出された。
わたしが、知りたいものがあるとき、我儘《わがまま》なわたしは、自分で図書館へ行かずに、かくのごときものがほしく候《そうろう》と書いて手紙を出せば、たちどころに、何の中にかくありましたと、それは明細に、一字一点の落ちもなく奇麗に写してよこしてくれるのが彼女だった。あんまりそれがキチンとしているので、わたしは彼女の芸術が面白くなくなる憂いがありはしないかと、余計な憎まれ口を叩《たた》いて、漢方医者の薬味箪笥《やくみだんす》のように、沢山の引出しがあり、一々、書附けが張りつけてでもあるような頭脳《あたま》だといったりした。たまには間違えて引出しをあけると、毒薬や、笑い薬なども出て来て楽しいだろうにといった。そんなことも、こと細かに、下書きをした上で、その日の日記帳に書き止められ、しかも彼女の批判がつけられてあるのが、浜子の仕方だった。
しかし、彼女には、彼女らしいユーモアが計《たく》らまれ、静かに実行にうつされることもあるのだった。言って見ればある時、年長者や、年下の者や、とにかく浜子の箏に心酔する、友達であり門弟である女人《ひと》たちが集められた会食の席で、わたしに、
「おやっちゃん、ニャアといってごらんなさい。」
と、並んでホークをとっている浜子がいった。わたしはなんの遅疑もなく、早速《さっそく》ニャアンと彼女の言葉の下にやった。わたしの眼はお皿からはなれてもいないし、四辺《あたり》の眼なんぞ考えにも入れていなかった。ただ、しかし、可愛らしい小猫の柔《やさ》しみがなかったので、
「まるでドラ猫だ。」
と、呟《つぶ》やきながら、もいちど、せいぜい小猫らしくやって見た。
と、浜子は、下をむいて、クックッと笑いを噛《か》み殺している。それがとても嬉しそうなのだ。で、お皿を下げに来た給仕人《きゅうじにん》の笑い顔を感じて、わたしは卓《テーブル》の人たちを見ると、みんな、呆《あき》れきった眼を丸くしてわたしにそそいでいるのだった。
あッはッははは。とわたしは男のように声を出してしまった。これが計画で御馳走があったのかと、見破ったからだった。浜子は、あたしのニャアンと言うことなど、あたりまえのことで、なんとも思いはしないことは知りきっているのだが、ただ、浜子の友達のなかに、こんなことを、平気でするものがあることを、吃驚《びっくり》するであろうみんなの前で披露して、呆《あき》れかたが見たかったのだ。それが思い通りだったので、楽しかったのに違いない。お景物《けいぶつ》に、わたしが、それがなんなの? といった顔をして、呆れている友達たちの顔を見たことまでが、予期した通りの好結果であったのだ。
「おかしな人で――」
わたしはそんなことを思出しながら、笑うとなおと、穿《は》き好《い》いからといって、太いふとい、まむしのような下駄《げた》の鼻緒《はなお》をこしらえさせて穿《は》いたり、丸髷《まるまげ》のシンをぬいて、向う側がくりぬけて見えるような髷にゆったりするので、この部屋に来て坐ると、わたしがこっち側からのぞいて、安房上総《あわかずさ》が見えるといったことなどを、とりとめもなく言って、
「お父さんは、信州の小県郡《ちいさがたごおり》の、二百年も連綿としたお庄屋様の家督とりで、廿五歳の青年お庄屋様は横浜へ飛んで来て、野惣《のそう》という生糸問屋《きいとどんや》へはいってしまったんで、横浜が大きくなり、野沢屋が大きくなると、総支配人で店を掴《にぎ》る人になったのですが――その利《き》かない気性と、強いものがあるところへ、お母さんは江戸っ児《こ》ですの。前川という有名な資産家の、太物《ふともの》問屋のお嫁御《よめご》になって、連合《つれあい》に別れたので、気苦労のないところへと再嫁して、浜子さんを生んだ時に、女の子だったらば、琴が上手《じょうず》になるようにと、箏をつるした下で産んだのだときいています。お稽古《けいこ》のことで面白いことがあるのです。」
あたしは聴いているままを、話した。両親の秘蔵ッ子には違いないが、母の教えたがるものと、父親の教えたがるものとは、すこしちがっていることや、お母さんは、浜子が小さすぎる生れだちで、弱いのを気にして、運動にもなるからと、踊の稽古をはじめさせたが、次の日、乳母《ばあや》だけがお供をしていって、帰ってくると浜子は、
「踊のおけいこ厭《いや》だから、やめてください。」
と、母親にいった。そんなに気がむかないのなら、また、そのうちに行きたくなるまで休ませようと、乳母《ばあや》を師匠のところへ断わりにやろうとすると、
「いいえ、好《い》いの、もうちゃんと来ませんと断わって来ました。」
と、六歳《むっつ》の彼女は言ったものだった。
箏の稽古の方は、箏を父親が好かないので、内《ない》しょで弟子入りしたのだった。
師匠の大出勾当《おおでこうとう》は、江戸で名の知れた常磐津《ときわず》の岸沢文左衛門《きしざわもんざえもん》の息子だった。開港地の横浜が日の出の勢いなので、早くから移って来ていたが、野沢屋の主人《あるじ》の囲い者で、栄華をきわめ贅沢《ぜいたく》をしつくしていた、お蝶さんという権妻《ごんさい》のひっかかりだったのだが、そんな縁引《えんび》きがありながら、盲目のこととて、新入門の弟子の体に触《さわ》って見たらば、あんまり小さいので、
「これでは仕方がない、大きくなったらまたお出《いで》なさい。」
と断わった。
それを、傍らで見ていた大出勾当の母親は、
「なにを馬鹿なことをいうんだ。稽古というものは、教えて見て、弾けるか弾けないかで断わりもするが、小さいから大きいからっていうことはない。大人《おとな》だって覚えない奴もある。子供だって、覚えようって来たものを、手筋も見ないで帰す馬鹿があるかッ。」
と、巻舌で息子を罵《のの》しった。その見幕《けんまく》に、泣き出すかと思った子は、ちょこちょこといって箏の前へ坐ったのだった。
「大出さんは、手ほどきのお弟子ですけれど、浜子さんには敬意をもっていました。いつか、横浜で、その勾当さんの会があったとき、箏を抱《かか》えてゆく浜子さんに附いていったらば、行くとすぐ、あの人の番にして、誰も彼も謹聴です。箏のお師匠さんのお盲目さんたちが、コチコチに堅くなって、背中を丸くして聴いていました。ある時、お父さんが、浚《さら》っている音色《ねいろ》をきいて、待ってくれと、坐り直してから、その後《のち》は、間《ま》をへだてても、キチンと正坐して聴いたものだといいます。で、そのお父さんが、何かにつけて、御褒美《ごほうび》をくださるのに、女の子の、浜子が望むのは、刀なので――」
「刀? これは妙だ。」
鼓村さんはますます興ありげに聴いている。
「ええ、あの人は、幾振りか持っています。そのなかで、思いがけない、今では、国宝級の国俊も、お父さんが東京から買って来て、御褒美に貰ったものだといいます。」
「面白いなあ。当時の横浜は、金がうなるようにあったのだと見える。」
「貿易商が、儲《もう》かってしようがなかったのは、弗相場《ドルそうば》だったといいます。なんにしろ、十六の子に百円の小遣いをもたせて、東京へ遊びによこす――」
「百円? なんで――」
鼓村さんは信じられない顔つきだ。
「東京へ、とまりに来たことがあるのだそうで、四十日ばかり泊っていたのですが、なにしろ、山谷八百善という派手な家業の家《うち》ではあり、九代目団十郎のおかみさんは、八百善が実家《さと》になっているという親類たちなので、時代は、丁度、明治二十四、五年ごろでしたでしょうから、鹿鳴館《ろくめいかん》時代の直後ですわねえ。でも、浜子さんはそういっていました。父は、あたしが、小遣いをどんなふうにつかうだろうと思っていたのだって。」
「何を買ったかなあ、刀? だが、子供では、他《はた》が買わせやしなかったろうが――え、なに、本?」
茶箱に何ばいかの書籍、それを担《かつ》がせて、意気揚々とおちび少女は帰っていったのだ。
「親馬鹿は感心したろうがにえ。」
鼓村さんは自分も感心したように言った。
「島田に結ってたころ、髭《ひげ》が今に生《は》えてくるでしょ、なんて、からかったけれど――そうそう、こんな話もありましたっけ、佐佐木|信綱《のぶつな》先生の所へいって、あたくしの友達の、こういう人を連れて来ますと言ったとき、その人ならば、思い違いをしたおかしい話があると、なんでも浜子さんが十五、六の時分ではなかったのでしょうか、錚々《そうそう》たる歌人たちを歌会を開いて招いたときの話で、佐佐木先生も招《よ》ばれていったが、どうも、その婦人は、年をとった偉い人なのだろうと出かけてゆくと、立派な家《うち》で、集まっている人たちも、浜子|刀自《とじ》とは、どんな人かとみんなが堅くなっていると、現われたのは、紫の振袖《ふりそで》を着て竪矢《たてや》の字に結んだ、小《ち》っこい小娘だったので、唖然《あぜん》としてしまったが、その態度は落ちつきはらっていたと――」
あははと、笑いだした鼓村さんは、突然、
「あれ、あれ。」
と、わたしに指差して教えた。家《うち》のものたちが、土手のはずれの方へいって、ワイワイ騒いでいるのだった。老父《ちち》も座敷の前の庭を横ぎっていった。
「どうしたのですか?」
鼓村さんは立っていって、挨拶《あいさつ》をしながら聴いた。
「いや、家鴨《あひる》が河へ出て、沖の方へゆくそうで――」
「やあ、じいやさんが船を出した。」
と、言いながら、鼓村さんは庭下駄をつッかけて、老父《ちち》のあとへ附いていった。
椽《えん》へ立って見ると、どうやら、河口へ出た家鴨《あひる》を、通りがかりの小舟が、網を投げかけたので、驚ろいて橋の下を越して、沖へ出ていったものらしかった。
白い大きな鳥が、青い潮にういているのがくっきりと見えている。対岸の商船学校から、オールを揃《そろ》えて短艇《ボート》を漕《こ》ぎ出してくるのが、家鴨とは反対に隅田川《すみだがわ》の上流の方へむかって辷《すべ》るように行く。ベカ舟《ぶね》に乗って、コイコイコイコイと、家鴨を呼んでいるじいやに、土手の上で、危いから帰って来いと呼んでいるのを、橋の上の人が、大声で伝えているものも見える。
庭
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