》を、すっかりとりかこんでいるのだった。彼女はこの箏に「青海波《せいかいは》」の名を与え、青い絃を懸けた。
「この箏で、五十年の祝いには弾こうと思う。鼓村さん(那智俊宣《なちしゅんせん》)が、放送したのもこれ、赤坂三会堂で演奏会を催して、この箏について説明をして、巻物にして書いておくるといっていたが、そのままになってしまって――」
京都へ行ってから、鼓村さんは絵の方を主にして、那智俊宣と名が変っていた。この古箏《こそう》の歴史についても委《くわ》しかったのであろうが、それよりも、私は、なんとなくいやな予感がした。鼓村さんは、間もなく歿《なく》なっているのだ。
関東における、八《や》ツ橋《はし》流を預っている彼女の、含蓄のある真伎倆を、も一度|昂揚《こうよう》させるために、よい作を選み、彼女の弾箏五十年の祝賀にそなえたいと思ううちに、彼女も亡母《なきはは》によばれたように大急ぎでこの世を去ってしまった。
病床についたある日、眼ざめていうには、
「お母さんが来て、お乳を飲めといってあやした。」
彼女は赤んぼにかえって、母の懐《ふところ》にねむった夢を見たのだ、そして、間もなく逝《い》ってしまった。
形見の名箏と、名剣を守って、賢吾氏が一人さびしく朱絃舎の門標のある家に残っているのを見ると、彼女が娘であって、わたしが陸奥《みちのく》の山里にいたころ、毎日毎日、歌日記をよこしてくれて、ある日、早い萩《はぎ》の花を封じこめ、一枚の写真を添えて、この男を、亡父《ちち》が、養子に見立てておいたのですが――といってよこしたことを思出す。
あなたの亡父《おとう》さんが、あなたのために考えておいたことなら、きっと、あなたがたを、良くお世話してくださるでしょう。
私はたしかにそう答えたのを覚えていて、今は、白髪になった人の孤影を、お気の毒に見守るばかりだ。病弱な浜子とは、殆《ほとん》ど夫婦関係ということなしに、よく仕えいたわられた。
死ぬ前に、彼女はこういったという。
「こんど、大阪へ演奏にいったら、私がプランをたてて、大和《やまと》めぐりに行きましょう。」
養子として、長い奉仕への、それがお礼心であったのであろう。立てなくなってからも、張りかえをする障子へ、めしと、一ぱいに書いて、御酒肴《おんさけさかな》アリとつけたし、へへののもへじと、おかしな顔を描いた。慰安の旅行も果さないで先立つということを、そんな、とぼけたやりかたで、謝《わ》びていたものでもあったろう。
底本:「新編 近代美人伝(下)」岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年12月16日第1刷発行
1993(平成5)年8月18日第4刷発行
底本の親本:「婦人公論」
1938(昭和13)年5〜7月
初出:「婦人公論」
1938(昭和13)年5〜7月
入力:門田裕志
校正:川山隆
2007年9月5日作成
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