々たる哀音は、尊《みこと》を守って海神《かいじん》に身を贄《にえ》と捧《ささ》ぐる乙橘媛《おとたちばなひめ》の思いを伝えるのだった。
 唄い終ってしまってからも、最後の音が残されていた。心ゆくばかりに弾じたのであろう心|足《た》らいに、暫時《しばし》の余韻をもって絃《いと》の上から手はおろされた。
 恍惚《こうこつ》とした聴者たちは息をつくものもなかった。薄くにじむ涙を、そっと拭《ふ》きとると、鼻をおさえているものもあった。少時《しばらく》口をきくものもないでいると、鼓村師も満足げに、水の面《おも》の方へ眼をやっていた。
 五月の潮の、ふくれきった水面は、小松の枝振りの面白い、波|除《よ》けの土手に邪魔もされず、白帆《しらほ》をかけた押送《おしおく》り船《ぶね》が、すぐ眼の前を櫓《ろ》拍子いさましく通ってゆくのが見える。
「ああ、よかった。」
 誰いうとなく呟《つぶ》やきかわすと、
「あの船も、あっちゃから来たんじゃね。」
 鼓村師は、庭へ出れば、安房上総《あわかずさ》の山脈が、紫青く見えるのを知っているので、ふと、そんなことを言っている。
 曲からうけた感銘に、ほろほろとしている主客
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