》を、すっかりとりかこんでいるのだった。彼女はこの箏に「青海波《せいかいは》」の名を与え、青い絃を懸けた。
「この箏で、五十年の祝いには弾こうと思う。鼓村さん(那智俊宣《なちしゅんせん》)が、放送したのもこれ、赤坂三会堂で演奏会を催して、この箏について説明をして、巻物にして書いておくるといっていたが、そのままになってしまって――」
京都へ行ってから、鼓村さんは絵の方を主にして、那智俊宣と名が変っていた。この古箏《こそう》の歴史についても委《くわ》しかったのであろうが、それよりも、私は、なんとなくいやな予感がした。鼓村さんは、間もなく歿《なく》なっているのだ。
関東における、八《や》ツ橋《はし》流を預っている彼女の、含蓄のある真伎倆を、も一度|昂揚《こうよう》させるために、よい作を選み、彼女の弾箏五十年の祝賀にそなえたいと思ううちに、彼女も亡母《なきはは》によばれたように大急ぎでこの世を去ってしまった。
病床についたある日、眼ざめていうには、
「お母さんが来て、お乳を飲めといってあやした。」
彼女は赤んぼにかえって、母の懐《ふところ》にねむった夢を見たのだ、そして、間もなく逝《い
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