》ってしまった。
 形見の名箏と、名剣を守って、賢吾氏が一人さびしく朱絃舎の門標のある家に残っているのを見ると、彼女が娘であって、わたしが陸奥《みちのく》の山里にいたころ、毎日毎日、歌日記をよこしてくれて、ある日、早い萩《はぎ》の花を封じこめ、一枚の写真を添えて、この男を、亡父《ちち》が、養子に見立てておいたのですが――といってよこしたことを思出す。
 あなたの亡父《おとう》さんが、あなたのために考えておいたことなら、きっと、あなたがたを、良くお世話してくださるでしょう。
 私はたしかにそう答えたのを覚えていて、今は、白髪になった人の孤影を、お気の毒に見守るばかりだ。病弱な浜子とは、殆《ほとん》ど夫婦関係ということなしに、よく仕えいたわられた。
 死ぬ前に、彼女はこういったという。
「こんど、大阪へ演奏にいったら、私がプランをたてて、大和《やまと》めぐりに行きましょう。」
 養子として、長い奉仕への、それがお礼心であったのであろう。立てなくなってからも、張りかえをする障子へ、めしと、一ぱいに書いて、御酒肴《おんさけさかな》アリとつけたし、へへののもへじと、おかしな顔を描いた。慰安の旅行
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