、浜子は、すくなからぬ奇縁のように悦んだ。
 そのころ、坪内先生のお宅は、以前《もと》の文芸協会のあった方に建って、古いお住居や、お庭や、畑の方は荘田家で買いとり、小路《こみち》も新しくついていたが、まだ、先生のお家《うち》と朱絃舎の間には、空地《あきち》があって、大きな樹《き》が二、三本残っている。その樹の下のあたりで、浜子は坪内先生と行きあった。
 彼女ももうだいぶ年もとったし、震災にもあったりして、気が練れて来たので、
「あたくしは、狂言座で、『浦島』を作曲させて頂きました、荻原浜子でございます。」
と名乗りかけた。
「それは珍しいお方にあった。」
と、晩年の、坪内老博士は大層よろこばれたといった。お話は尽きなかったのであろう、その後で、例年のように届けてくれる、小田原《おだわら》の道了《どうりょう》さまのお山から取りよせる栗《くり》でつくったお赤飯を、母が先生にも差上げたいといったから、持参してお話をして来たと、感慨深そうにした。
 菊五郎門下の「菊葉会《きくようかい》」に、九条武子さんの作、四季のうちの「秋」に作曲したが、長安一片《ちょうあんいっぺん》の月、万戸《ばんこ》衣を
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