て、私は浜子と絶交すると言った。
 猿之助からの返事は、小生《しょうせい》ゆえに、長い友達と絶交してくれるなというのだった。
 私は、以前《まえ》から箏曲では「那須野《なすの》」が、すこしの手も入れないで、あのまま踊になるということをいつも言っていた。それで故|尾上栄三郎《おのええいざぶろう》が「踏影会《とうえいかい》」を市川|男女蔵《おめぞう》とつくった時に、浜子の地《じ》で上演したことがある。芒《すすき》すらあまり生《は》えない、古塚の中から、真白《まっしろ》の褂《うちぎ》を着て、九尾《きゅうび》に見える、薄黄の長い袴で玉藻《たまも》の前《まえ》が現われるそれが、好評であったので、後に、歌舞伎座で、菊五郎が上演しようとし、地の箏は朱絃舎浜子にと、随分と望み、浜子もその心持でいたのだが、その実現は見なかった。
 ともあれ、箏曲《そうきょく》の劇壇への進出は、朱絃舎浜子を嚆矢《こうし》とする。
       *
 大正五年世界大戦の余波は、我国の経済界をも動揺させた。横浜開港の時からの生糸商、野沢屋の七十四銀行の取附けとなり遂に倒産した。
 浜子の家《うち》では、当主賢吾氏が、子飼《こ
前へ 次へ
全63ページ中54ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング