板の看板だけにしたというが――
芝居の裏通りや附近には、有名な役者たちが住み、音曲《おんぎょく》の方の人たちも、その一角のなかかその近間《ちかま》にいた。櫓下芸妓《やぐらしたげいしゃ》もあるといったふうで、四囲の雰囲気は、すべてが歌舞伎国領土であった。
新島原という名は、京都で有名な、島原遊廓から来たものであったろう。あまり短命だったので、知れていないが、明治二年に、あの土地へ遊廓が許されて、新島原が出来かかったのだが、次の年の秋に大暴風雨があって、中万字《なかまんじ》という妓楼が吹き倒され、遊女が八人も怪我《けが》をしたので、遊廓の未完成のまま立退《たちの》きを命じられた。
新富座の前名の守田座は、その島原へ建った。もともと、遊廓と芝居は離れない因縁をもっていて――歌舞伎の創業時代に遊女が小屋がけをしたことなどをいっていると、それだけでも長くなるが――江戸開府のころ、日本橋区人形町附近の、葭《よし》の生《は》えているような土地を埋めたてたりして、葭原《よしわら》という廓《くるわ》が出来、住吉町《すみよしちょう》、浪花町《なにわちょう》などと、出身地の地名をかたどった盛り場となり
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