あかしちょうがし》へ出た。浜方《はまかた》の魚場《いさば》気分と、新設された外人居留地という、特種の部落を控えて、築地橋|橋畔《きょうはん》の両岸は、三味線の響き、粋《いき》な家《うち》が並んでいた。夕汐《ゆうしお》の高い、靄《もや》のしめっぽい宵《よい》など、どっち河岸を通っても、どの家の二階の灯も艶《なまめ》かしく、川水に照りそい流れていた。咽《むせ》ぶような闇《やみ》のなかを、ギイと櫓《ろ》の音がしたりして、道路《おうらい》より高いかと思うような水の上を、金髪娘を乗せたボートが櫂《かい》をあげて、水を断《き》ってゆくのだった。
 その、橋の向う角の一角を、東京の者は島原《しまばら》といった。そこにある新富座という劇場のことも、島原という代名詞でいった。
 あたくしが幽《かす》かに覚えているのだから、明治も中期のことであったろうが、この劇場と、芝居茶屋の前に、道路に桜が植えられ、燈籠《とうろう》がたったほどこの一角は、緋《ひ》もうせんと、花暖簾《はなのれん》と、役者の紋ぢらしの提燈《ちょうちん》との世界であった。尤《もっと》も、演劇改良の趣意で建設当時には、花暖簾も提燈もやめさせ、
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