を、救ってくれたのは、鼓村師の好きな素麺《そうめん》だった。古くからいる、年とった女中は、弾奏のあとで、冷たいものを悦ばれるのを知っているので、大きな鉢へ蕗《ふき》の葉を敷いて、透き通るように洗った素麺を盛ったのを、そのまま鼓村師の膝の前へ押しつけた。
「これを、みな食べたら、恥かしいがな。」
そう言いながら、一鉢はすぐになくなってしまった。それと同時に、
「あなた様の分は、もう一鉢ございます。」
と、代りの、前のよりも大きい鉢が運ばれて来た。
大きな人が、舞妓《まいこ》でもするようにはにかんで、口をつまんで、スッ、ヘ、スッ、ヘ、と中へ笑いながら、その鉢も引きよせたが、素麺を、するりと咽喉《のど》にすべり入れると、先刻《さっき》の、正午《おひる》のお弁当の話がまたつづけられることになって、
「その女子《ひと》が断わっていうのには、先生には、誠に済まないのだが、どんなおりにも、正午《おひる》の時計と、キチンとおなじに食べつけているので、そうしないと、お腹《なか》の具合が悪いというて――何処か悪いところがあるのじゃろうが――」
「お腹《なか》に病気がありますの。」
わたしは誠に手軽く答えた。
「なにしろ、お医者に言われると、ちゃんと、もう十年にもなりますでしょう、家《うち》にいれば、お午飯《ひる》は、ビフテキ一皿と、葡萄《ぶどう》が六顆《むっつ》ばかり。お母さんが、ちゃんと拵《こし》らえて、食べる娘《ひと》は机の上の時計を見ていて――」
「なんじゃ、あんた、知っとるのか? その女子《ひと》。」
素麺を滝のように口にしたまま、眼を剥《む》いたのが、黒い顔に、いかにもびっくらしたというふうだった。
「ええ。」
お腹《なか》から押し出てくる笑《え》まいを、わたしは呆《あき》れている、素麺の上にあるその顔にむけた。
「横浜といえば――そうでなくったって、あんな人は、まあないでしょう、浜子でなければ――」
「そうじゃとも。」
鼓村師は、一飲込《ひとのみこ》みしてから大きく頷《うなず》いて、
「あんた友達か?」
今度はわたしが説明する番に廻って、ええと言った。
「横浜の家《うち》へ着くと、お母さんという人が、御馳走《ごちそう》をしたのなんのと、わしでも、どうにもならんかった。可愛いんじゃね、一人娘のようじゃったが。」
「おばさんは、浜子さんのお友達なら、どんな奉仕もするのです。彼処《あすこ》のうちの台所は、とても立派な、調理用ストーブが並んでいるし、井戸は坐っていて酌《く》めるように、台所の中央《まんなか》にあるし、料理は赤堀先生の高弟で、洋食は、グランド・ホテルのクック長が来ていたから、おばさんの腕前は一流です。それに、山谷《さんや》の八百善《やおぜん》は妹の家《うち》ですから――」
江戸《えど》の味覚は、浅草山谷に止《とど》めを差すように、会席料理八百善の名は、沽券《こけん》が高かったのだった。
「浜子さんが、ムッと黙っているので、おばさんが、その代りにニコニコ、ニコニコして、阿亀《おかめ》さんがわらっているように、例《いつ》も笑い顔をしてるでしょう。」
「そうや、そうや。」
鼓村氏は、浜子が体が弱いので、転地ばかりしているから、その時持ってゆくのに具合の好《い》い、寸づまりで、幅の広い箏を、正倉院《しょうそういん》の御物《ぎょぶつ》の形《かた》ちを模して造らせた話をした。
「箏の裏板へ大きな扉《とびら》をつけて、あの開閉で、響きや、音色《ねいろ》の具合を見ようという試みね、巧《うま》くいってくれればようござんすね。」
あの箏の、裏板のバネを鼓村師が考えていることも、わたしは知っていた。
「あれは、わしも期待しています。わしゃあ、日清《にっしん》戦争に琵琶《びわ》を背負っていって、偉く働らいたり琵琶少尉の名も貰《もろ》うたりしたが、なんやらそれで徹したものがあって、京極流も出来上ったが、あの人は、なんであんなに、箏にはいっていったものかなあ。」
わたしの眼に、ふっと、一文字国俊《いちもんじくにとし》の刀《かたな》が見えた。と同時に、横浜の家《うち》の、土蔵《くら》の二階一ぱいの書籍の集積が思い出された。
わたしが、知りたいものがあるとき、我儘《わがまま》なわたしは、自分で図書館へ行かずに、かくのごときものがほしく候《そうろう》と書いて手紙を出せば、たちどころに、何の中にかくありましたと、それは明細に、一字一点の落ちもなく奇麗に写してよこしてくれるのが彼女だった。あんまりそれがキチンとしているので、わたしは彼女の芸術が面白くなくなる憂いがありはしないかと、余計な憎まれ口を叩《たた》いて、漢方医者の薬味箪笥《やくみだんす》のように、沢山の引出しがあり、一々、書附けが張りつけてでもあるような頭脳《あたま》だといったりした
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