と聞いていた人の名をいって見た。
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ゆきずりの、我小板橋《わがこいたばし》しら/\と、
一重《ひとえ》のうばら、いづくより流れかよりし、君まつと、ふみし夕べにいひ知らず、しみて匂ひき――
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と、私は口のうちで、石《いそ》の上《かみ》露子の詩をうたって見ていた。
それを、大きな掌《てのひら》は、遠くからおさえるように動かされて、
「あれは美人じゃからなあ――石河《いしかわ》の夕千鳥には、彼女の趣味から来る風情《ふぜい》が添うが――わしが、今感心しておる女子《ひと》は、箏《こと》のこととなると、横浜から、箏を抱いてくる。小いさな体《からだ》をして。」
ちいさな、というのに力を入れて、丁度|絃《いと》の締まった箏を、軽々《かるがる》と坐ったまま、ぐるりと筆規《ぶんまわし》のように振りかえた便次《ついで》に、抱《かか》えるようにして見せた。
「こんなようにしてじゃぞ。」
私の顔は笑っていたに違いない。鼓村師は割合、細心なところもあるので、箏を振り廻したのを、乱暴したように笑っているのだとでも思いもしたように、豪放のような、照れたような笑いに、また首をちぢめてまぎらわした。
水の清い、石川河の磧《かわら》に近く庵室《あんしつ》をしつらえさせて、昔物語の姫君のように、下げ髪に几帳《きちょう》を立て、そこに冥想《めいそう》し、読書するという富家《ふうか》の女《ひと》は、石の上露子とも石河の夕千鳥とも名乗って、一人静かに箏を掻《か》きならす上手《じょうず》の名があった。それからまた、横浜から箏を持って習《まな》びにゆくという女《ひと》にもわたしには心あたりがあるので、思わず破顔したのだった。
「共通なところがあるのでしょ。」
と私は言った。それは、たしかに、二女に共通したものがあるのだったが、鼓村師には解《げ》せなかった。安坐の上に乗せた箏に、柱《じ》をたてながら、
「その小《ち》いっこい女《ひと》は、几帳面《きちょうめん》で几帳面で、譜をとるのに、これっぽっちの間違いもない。ありゃどうしたことじゃろうかね。箏の音はまた、それとは違うて、渺々《びょうびょう》としておるので――真の、玉琴というのはああした音色《ねいろ》と、余韻とでなければ――」
だが、その玉琴の名手が、なんとしたことか、正午というと、何処でもお弁当を食べだすと、溜息《ためいき》のように、
「それがなあ、汽車のなかででもで――汽車じゃというたところが四十分そこそこの横浜と東京の間で、それも買って食べるのではないのだから、ちゃんと、弁当箱を出すのだからわしの方が恥かしくって、顔見られるようで愁《つら》かったが、すまあしてやっとる。見とるとわしも腹が空《す》くが、横浜までは何も売ってはおらんので――」
鼓村師は、大きな口と、小さな眼で笑った。
そう言ううちに膝《ひざ》の上で、箏の調子はあっていた。大きな、厚い、角爪《かくづめ》が指に嵌《は》められると、身づくろいして首が下げられた。
私も、ずっと離れて、聴くにほどよい席につき、お辞儀をすると、膝の上に手を重ねた。
渡り廊の方に、聴きに寄っているものたちがいる様子で、父は向うの居間《いま》で聴いている気配だった。襖《ふすま》の横には妹たちが来た。
荘重なる音色、これが箏かと思われるほど、他の流とは異なる大きやかな、深みのある、そして幅広い弾奏だった。十三弦は暴風雨《あらし》を招《よ》んで、相模《さがみ》の海に荒ぶる、洋《うみ》のうなりと、風雨の雄叫《おた》けびを目の前に耳にするのであった。切々たる哀音は、尊《みこと》を守って海神《かいじん》に身を贄《にえ》と捧《ささ》ぐる乙橘媛《おとたちばなひめ》の思いを伝えるのだった。
唄い終ってしまってからも、最後の音が残されていた。心ゆくばかりに弾じたのであろう心|足《た》らいに、暫時《しばし》の余韻をもって絃《いと》の上から手はおろされた。
恍惚《こうこつ》とした聴者たちは息をつくものもなかった。薄くにじむ涙を、そっと拭《ふ》きとると、鼻をおさえているものもあった。少時《しばらく》口をきくものもないでいると、鼓村師も満足げに、水の面《おも》の方へ眼をやっていた。
五月の潮の、ふくれきった水面は、小松の枝振りの面白い、波|除《よ》けの土手に邪魔もされず、白帆《しらほ》をかけた押送《おしおく》り船《ぶね》が、すぐ眼の前を櫓《ろ》拍子いさましく通ってゆくのが見える。
「ああ、よかった。」
誰いうとなく呟《つぶ》やきかわすと、
「あの船も、あっちゃから来たんじゃね。」
鼓村師は、庭へ出れば、安房上総《あわかずさ》の山脈が、紫青く見えるのを知っているので、ふと、そんなことを言っている。
曲からうけた感銘に、ほろほろとしている主客
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