朱絃舎浜子
長谷川時雨

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)木橋《もくきょう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)鈴木|鼓村《こそん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから2字下げ]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)しら/\と
−−

       一

 木橋《もくきょう》の相生橋《あいおいばし》に潮がさしてくると、座敷ごと浮きあがって見えて、この家だけが、新佃島《しま》全体ででもあるような感じに、庭の芝草までが青んで生々してくる、大川口《おおかわぐち》の水ぎわに近い家の初夏だった。
「ここが好《え》いぞ、いや、敷《しき》ものはいらん、いらん。」
 広い室内の隅《すみ》の方へ、背後《うしろ》に三角の空《くう》を残して、ドカリと、傍床《わきどこ》の前に安坐《あんざ》を組んだのは、箏《こと》の、京極《きょうごく》流を創造した鈴木|鼓村《こそん》だった。
「此処《ここ》は反響が好《い》い、素晴しく好《え》いね。」
 も一度立って、廻り椽《えん》の障子《しょうじ》も、次の間《ま》への襖《ふすま》も、丸窓の障子もみんな明けて来た。
「ええね、ええね、なんか嬉しい気がするぞ、今日は良《よ》う弾《ひ》けるかも知れんなあ。あれ、あんなに潮が高くなった。わしゃ、厳島《いつくしま》に行ってること思出しています。ホ!」
 また大きな体を、椽のさきまで運んでいった。
「ほう、ほう、見る間《ま》に、中洲《なかす》の葭《よし》がかくれた。あれ、庭の池で小禽《なに》か鳴いているわい。」
「翡翠《かわせみ》でしょう。」
 わたしは早く「橘媛《たちばなひめ》」が聴きたかった。
「まあ、すぐじゃ、すぐじゃ。」
 鼓村氏は閉口した時にする、頭の尖《さき》の方より、頸《くびすじ》の方が太いのを縮めて、それが、わざと押込みでもするかのように、広い額に手をあてながら座についた。外で演奏する時には、ゆったりした王朝式の服装と、被《かぶ》りものであるが、今日のように平服のときは、便々《べんべん》たる太鼓腹の下の方に、裾《すそ》の広がらない無地の木綿《もめん》のような袴をつけている。
 寛々《らくらく》と組んだ安坐の上に、私たちの稽古琴《けいこごと》を乗せて、ばらんと十三本の絃《いと》を解いた。
「山の手におると、乾《かわ》くような気がすると、八千代《やちよ》さんはいうているなあ。此家《ここ》へくると、ジュウっと、水が滲《し》みわたるようじゃというてたが、わしもそう思います。」
「岡田八千代《やちよ》さんは、水がすきで、御飯へもかけて食べますもの、夏は氷で冷たくしたのを。」
「や、そか?」
 鼓村師の、大きな体と、ひろびろした頬《ほお》をもつ顔に似合わない、小いさな眼が、箏《こと》の上に顔ごとつきだされた。
「水は好《え》いもんじゃなあ、麹町《わし》の家《うち》の崖《がけ》に、山吹《やまぶき》が良《よ》う咲いているが、下に水があると好《え》えのじゃが――」
 椽《えん》に栗山桶《くりやまおけ》がおいてあって、御簾《みす》のかかっている家《うち》の話に移っていった。
 そういううちにも大きな掌《てのひら》は、むずと、十三本の絃《いと》をいちどきに握って、ギュンと音をさせて締めあげた。
 それから一絃ずつ、右の片手の、親指と人差指に唾《つば》をつけては絃をくぐらせて、しっかり止める始末をしてゆくのだった。その扱いかたの見事さに、うっかり見とれていると、
「あの、何じゃね、話が先刻《さっき》飛んでしまったのじゃけど、妙な、不思議な女子《おなご》で――」
と、指を湿らせる合間《あいま》に、水をほめる前に、先刻話しかけたつづきを、思出したようにいうのだった。
「わしも、いろんな弟子《でし》をもったが、その女子《おなご》ほどの名手は、実際会ったことがないほどで、それが、こっちから訊《き》かなければ何も知らんふりをしているが、なんでも弾けるのでなあ、忘れてしまうと、わしのものを、わしが教えてもらうので――いや、ほんのこっちゃ。」
 鼓村師は、自分の作曲したものでも、自分で忘れた部分は、爪音《つまおと》をとめて、絃《いと》の上に手を伏せたまま唄《うた》っていることがある。感興が横溢《おういつ》すれば、十三弦からはみ出してしまうほどの、無碍《むげ》の芸術境に遊ぶ人だった。
「では、河内《かわち》の国、富田林《とんだばやし》の、石《いそ》の上露子《かみつゆこ》さんとどっちが――」
 かつて、雑誌『明星《みょうじょう》』の五人の女詩人、鳳晶子《おおとりあきこ》、山川登美子、玉野花子、茅野雅子《ちのまさこ》と並んで秀麗《うつく》しい女《ひと》であって、玉琴《たまごと》の名手
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