。たまには間違えて引出しをあけると、毒薬や、笑い薬なども出て来て楽しいだろうにといった。そんなことも、こと細かに、下書きをした上で、その日の日記帳に書き止められ、しかも彼女の批判がつけられてあるのが、浜子の仕方だった。
しかし、彼女には、彼女らしいユーモアが計《たく》らまれ、静かに実行にうつされることもあるのだった。言って見ればある時、年長者や、年下の者や、とにかく浜子の箏に心酔する、友達であり門弟である女人《ひと》たちが集められた会食の席で、わたしに、
「おやっちゃん、ニャアといってごらんなさい。」
と、並んでホークをとっている浜子がいった。わたしはなんの遅疑もなく、早速《さっそく》ニャアンと彼女の言葉の下にやった。わたしの眼はお皿からはなれてもいないし、四辺《あたり》の眼なんぞ考えにも入れていなかった。ただ、しかし、可愛らしい小猫の柔《やさ》しみがなかったので、
「まるでドラ猫だ。」
と、呟《つぶ》やきながら、もいちど、せいぜい小猫らしくやって見た。
と、浜子は、下をむいて、クックッと笑いを噛《か》み殺している。それがとても嬉しそうなのだ。で、お皿を下げに来た給仕人《きゅうじにん》の笑い顔を感じて、わたしは卓《テーブル》の人たちを見ると、みんな、呆《あき》れきった眼を丸くしてわたしにそそいでいるのだった。
あッはッははは。とわたしは男のように声を出してしまった。これが計画で御馳走があったのかと、見破ったからだった。浜子は、あたしのニャアンと言うことなど、あたりまえのことで、なんとも思いはしないことは知りきっているのだが、ただ、浜子の友達のなかに、こんなことを、平気でするものがあることを、吃驚《びっくり》するであろうみんなの前で披露して、呆《あき》れかたが見たかったのだ。それが思い通りだったので、楽しかったのに違いない。お景物《けいぶつ》に、わたしが、それがなんなの? といった顔をして、呆れている友達たちの顔を見たことまでが、予期した通りの好結果であったのだ。
「おかしな人で――」
わたしはそんなことを思出しながら、笑うとなおと、穿《は》き好《い》いからといって、太いふとい、まむしのような下駄《げた》の鼻緒《はなお》をこしらえさせて穿《は》いたり、丸髷《まるまげ》のシンをぬいて、向う側がくりぬけて見えるような髷にゆったりするので、この部屋に来て坐ると、わたしがこっち側からのぞいて、安房上総《あわかずさ》が見えるといったことなどを、とりとめもなく言って、
「お父さんは、信州の小県郡《ちいさがたごおり》の、二百年も連綿としたお庄屋様の家督とりで、廿五歳の青年お庄屋様は横浜へ飛んで来て、野惣《のそう》という生糸問屋《きいとどんや》へはいってしまったんで、横浜が大きくなり、野沢屋が大きくなると、総支配人で店を掴《にぎ》る人になったのですが――その利《き》かない気性と、強いものがあるところへ、お母さんは江戸っ児《こ》ですの。前川という有名な資産家の、太物《ふともの》問屋のお嫁御《よめご》になって、連合《つれあい》に別れたので、気苦労のないところへと再嫁して、浜子さんを生んだ時に、女の子だったらば、琴が上手《じょうず》になるようにと、箏をつるした下で産んだのだときいています。お稽古《けいこ》のことで面白いことがあるのです。」
あたしは聴いているままを、話した。両親の秘蔵ッ子には違いないが、母の教えたがるものと、父親の教えたがるものとは、すこしちがっていることや、お母さんは、浜子が小さすぎる生れだちで、弱いのを気にして、運動にもなるからと、踊の稽古をはじめさせたが、次の日、乳母《ばあや》だけがお供をしていって、帰ってくると浜子は、
「踊のおけいこ厭《いや》だから、やめてください。」
と、母親にいった。そんなに気がむかないのなら、また、そのうちに行きたくなるまで休ませようと、乳母《ばあや》を師匠のところへ断わりにやろうとすると、
「いいえ、好《い》いの、もうちゃんと来ませんと断わって来ました。」
と、六歳《むっつ》の彼女は言ったものだった。
箏の稽古の方は、箏を父親が好かないので、内《ない》しょで弟子入りしたのだった。
師匠の大出勾当《おおでこうとう》は、江戸で名の知れた常磐津《ときわず》の岸沢文左衛門《きしざわもんざえもん》の息子だった。開港地の横浜が日の出の勢いなので、早くから移って来ていたが、野沢屋の主人《あるじ》の囲い者で、栄華をきわめ贅沢《ぜいたく》をしつくしていた、お蝶さんという権妻《ごんさい》のひっかかりだったのだが、そんな縁引《えんび》きがありながら、盲目のこととて、新入門の弟子の体に触《さわ》って見たらば、あんまり小さいので、
「これでは仕方がない、大きくなったらまたお出《いで》なさい。」
と断わった。
そ
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