れを、傍らで見ていた大出勾当の母親は、
「なにを馬鹿なことをいうんだ。稽古というものは、教えて見て、弾けるか弾けないかで断わりもするが、小さいから大きいからっていうことはない。大人《おとな》だって覚えない奴もある。子供だって、覚えようって来たものを、手筋も見ないで帰す馬鹿があるかッ。」
と、巻舌で息子を罵《のの》しった。その見幕《けんまく》に、泣き出すかと思った子は、ちょこちょこといって箏の前へ坐ったのだった。
「大出さんは、手ほどきのお弟子ですけれど、浜子さんには敬意をもっていました。いつか、横浜で、その勾当さんの会があったとき、箏を抱《かか》えてゆく浜子さんに附いていったらば、行くとすぐ、あの人の番にして、誰も彼も謹聴です。箏のお師匠さんのお盲目さんたちが、コチコチに堅くなって、背中を丸くして聴いていました。ある時、お父さんが、浚《さら》っている音色《ねいろ》をきいて、待ってくれと、坐り直してから、その後《のち》は、間《ま》をへだてても、キチンと正坐して聴いたものだといいます。で、そのお父さんが、何かにつけて、御褒美《ごほうび》をくださるのに、女の子の、浜子が望むのは、刀なので――」
「刀? これは妙だ。」
 鼓村さんはますます興ありげに聴いている。
「ええ、あの人は、幾振りか持っています。そのなかで、思いがけない、今では、国宝級の国俊も、お父さんが東京から買って来て、御褒美に貰ったものだといいます。」
「面白いなあ。当時の横浜は、金がうなるようにあったのだと見える。」
「貿易商が、儲《もう》かってしようがなかったのは、弗相場《ドルそうば》だったといいます。なんにしろ、十六の子に百円の小遣いをもたせて、東京へ遊びによこす――」
「百円? なんで――」
 鼓村さんは信じられない顔つきだ。
「東京へ、とまりに来たことがあるのだそうで、四十日ばかり泊っていたのですが、なにしろ、山谷八百善という派手な家業の家《うち》ではあり、九代目団十郎のおかみさんは、八百善が実家《さと》になっているという親類たちなので、時代は、丁度、明治二十四、五年ごろでしたでしょうから、鹿鳴館《ろくめいかん》時代の直後ですわねえ。でも、浜子さんはそういっていました。父は、あたしが、小遣いをどんなふうにつかうだろうと思っていたのだって。」
「何を買ったかなあ、刀? だが、子供では、他《はた》が買わせやしなかったろうが――え、なに、本?」
 茶箱に何ばいかの書籍、それを担《かつ》がせて、意気揚々とおちび少女は帰っていったのだ。
「親馬鹿は感心したろうがにえ。」
 鼓村さんは自分も感心したように言った。
「島田に結ってたころ、髭《ひげ》が今に生《は》えてくるでしょ、なんて、からかったけれど――そうそう、こんな話もありましたっけ、佐佐木|信綱《のぶつな》先生の所へいって、あたくしの友達の、こういう人を連れて来ますと言ったとき、その人ならば、思い違いをしたおかしい話があると、なんでも浜子さんが十五、六の時分ではなかったのでしょうか、錚々《そうそう》たる歌人たちを歌会を開いて招いたときの話で、佐佐木先生も招《よ》ばれていったが、どうも、その婦人は、年をとった偉い人なのだろうと出かけてゆくと、立派な家《うち》で、集まっている人たちも、浜子|刀自《とじ》とは、どんな人かとみんなが堅くなっていると、現われたのは、紫の振袖《ふりそで》を着て竪矢《たてや》の字に結んだ、小《ち》っこい小娘だったので、唖然《あぜん》としてしまったが、その態度は落ちつきはらっていたと――」
 あははと、笑いだした鼓村さんは、突然、
「あれ、あれ。」
と、わたしに指差して教えた。家《うち》のものたちが、土手のはずれの方へいって、ワイワイ騒いでいるのだった。老父《ちち》も座敷の前の庭を横ぎっていった。
「どうしたのですか?」
 鼓村さんは立っていって、挨拶《あいさつ》をしながら聴いた。
「いや、家鴨《あひる》が河へ出て、沖の方へゆくそうで――」
「やあ、じいやさんが船を出した。」
と、言いながら、鼓村さんは庭下駄をつッかけて、老父《ちち》のあとへ附いていった。
 椽《えん》へ立って見ると、どうやら、河口へ出た家鴨《あひる》を、通りがかりの小舟が、網を投げかけたので、驚ろいて橋の下を越して、沖へ出ていったものらしかった。
 白い大きな鳥が、青い潮にういているのがくっきりと見えている。対岸の商船学校から、オールを揃《そろ》えて短艇《ボート》を漕《こ》ぎ出してくるのが、家鴨とは反対に隅田川《すみだがわ》の上流の方へむかって辷《すべ》るように行く。ベカ舟《ぶね》に乗って、コイコイコイコイと、家鴨を呼んでいるじいやに、土手の上で、危いから帰って来いと呼んでいるのを、橋の上の人が、大声で伝えているものも見える。
 庭
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