た。けれど、もう父の関氏はこの世の人ではなかった。
今年の二月二十日、わたしはふと、ませ子さんに欣々さんの死ぬ前の様子がききたくなった。二、三日たって、相州片瀬《そうしゅうかたせ》の閑居に、ませ子さんの室《へや》にわたしは坐った。
ませ子さんも、清方《きよかた》画伯が「築地河岸《つきじがし》の女」として、いつか帝展へ出品した美しい人である。病後とはいえ、ふと打ちむかった時、欣々さんにこうも似ていたかと思うほど、眼と眉《まゆ》がことに美しく、髪が重げだった。この女《ひと》が、大学出の子息が二人もあって、一人は出征もしていられるときくと、嘘《うそ》のような気のするほど、古代紫の半襟《はんえり》と、やや赤みの底にある唐繻子《とうじゅす》の帯と、おなじ紫系統の紺ぽいお召《めし》の羽織がいかにも落ちついた年頃の麗々しさだった。
「姉は惜《おし》い人でしたわ、育てかたと、教育のしようでは河原操《かわはらみさお》さんのようなお仕事をも、したら出来る人だったと思います。
死ぬのなら、もっと早く死《し》なせたかった。あの通りの華美《はで》な気象ですもの。あの人の若いころって、随分異性をひきつけてい
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