別段わるい心でではなかったが、ふと欣々の子だといったら案外大切にされたので、一度口にした効果がわすれられなかったからだと言う訳なの。」
けれど、厭《いや》な思いもしたし、かなり迷惑もした。人をもって警察の力も借りて、後々《のちのち》そういうことのないようにしてもらいはしたが――
「ほんとの子ならばしかたがないが誤伝て、いやなものねえ。」
白い袖の振りを、指輪の手でしごきながら話していたが、突然《いきなり》白い襦袢《じゅばん》の袖をひっぱりだして、急いで眼にもっていった。その瞬間、たもちかねたような、大つぶの雫《しずく》がこぼれるのを見た。
まあと、深く息をのんで、感動を現わし示したのは合客たちだった。浜子は黙して眼鏡《めがね》をずりあげていた。わたしも気の毒さに面《おも》を伏せているよりほかなかった。
その間に、電話の鈴《ベル》がひびいて取次がれた、彼女は輝く手でまぶたをおさえながら、
「あ、大臣の、尾崎さんの夫人《おくさま》からなら、どうか明日《みょうにち》御覧にお出《いで》下さいまして。」
眼は濡《ぬ》れていて、声は華やかだった。
「折角の夜《よる》を、こんな話をしてしまって――お雛《ひな》さまがおむずかりになるわ。」
用はもう済んだのだ、彼女は立って広間へ案内した。
広い客間の日本室を、雛段は半分《なかば》ほども占領している。室の幅一ぱいの雛段の緋毛氈《ひもうせん》の上に、ところせく、雛人形と調度類が飾られてあった。
「御覧あそばせ。まるで養子のように、誰も彼も、これは僕のだこれは私のだと、場所を占領して飾りますの、みんな一|揃《そろ》いずつですもの。いまに、室いっぱいになってしまいますのでしょうよ。あんまり見ごとだって、それをまたいろいろの方が御見物にいらっしゃるので――明日《あした》は大勢さんをお招き申しましたわ。こんやは、あなたのためにだけよ。」
お雛さまの前に食卓がつくられてあって、みんな席へついた。
「あたくしねえ、給仕《きゅうじ》は、年の若い、ちいさい綺麗な男の子がすきです。汚ない、不骨《ぶこつ》な大きな手が、お皿と一緒につきだされると、まずくなる。」
ほんとに、その通りの少年が、おなじ緑の服を着て、白い帽子を頭において三、四人出て来た。
キュラソウの高脚杯《グラス》を唇にあてて、彼女はにこやかに談笑する。
「今晩は、お雛さまも御洋食ですの。わざと、洋食にいたしましたのよ、自慢の料理人でございます。軽井沢《かるいざわ》へゆきますのに連れてゆくために、特別に雇ってある人ですの。」
その、御自慢の料理人が、腕を見せたお皿が運びだされた。
「明日《あした》は泉鏡花さんも見えるでしょうよ、あの方の厭《いや》がりそうなものを、だまって食べさせてしまうの、とてもおかしゅうござんすわ。」
泥鼈《すっぽん》ぎらいな鏡花氏に、泥鼈の料理を食べさせた話に、誰も彼も罪なく笑わせられた。
あたしは、鏡花さんが水がきらいで私の住んでいた佃島《つくだじま》の家《うち》が、海※[#「さんずい+粛」、第4水準2−79−21]《つなみ》に襲われたとき、ほどたってからとても渡舟《わたし》はいけないからと、やっとあの長い相生橋《あいおいばし》を渡って来てくださったことを思出したり、厭《きら》いとなったら、どんな猛暑にも雷が鳴り出すと蚊帳《かや》のなかでふとんをかぶっていられるので、ある時、奈良へ行った便次《ついで》に、唐招菩提寺《とうしょうぼだいじ》の雷|除《よ》けをもっていってあげたことを、思出したりしていた。泉さんは、厭《きら》いといえば、しん[#「しん」に傍点]から底から厭いな方《かた》だったのだ。鏡花愛読者が鏡花会をつくって作者に声援していたころだった。欣々女史も鏡花会にはいって、仲間入りの記念《しるし》にと、帯地《おびじ》とおなじに機《お》らせた裂地《きれじ》でネクタイを造られた贈りものがあったのを、幹事の一人が嬉しがって、
「此品《これ》、欣々女史の帯とおなじ裂《き》れだそうです。」
とネクタイをひっぱって見せたのを、微笑《ほほえ》ましくこれも思出していた。
すると彼女はこういっていた。
「ええ、ええ、たいへんでしたわ。おいしいおいしいって食《たべ》てしまってから、たねを明《あか》すと、嗽《うが》いをなさるやらなにやら――」
介添《かいぞえ》えに出ている、年増《としま》の気のきいた女中が、その時の様子を思い浮べさせるように、たまらなくおかしそうにふうッといって、袂《たもと》で口をおさえた。
食後はもうひとつの広間へ移った。そこはばかに広かった。琴が、生田《いくた》流のも山田流のも、幾面も緋毛氈《ひもうせん》の上にならべてあった。三味線《しゃみせん》も出ている。
「こちらに、近衛家《このえけ》からか出た大
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