層お古い、名箏《めいそう》があるようにうかがっておりましたが――」
と、はじめて浜子が声を出した。
「ああ、あれ御承知? すぐ出させましょう。」
 パチパチと手を打った。女中たちが顔を出した。浜子はちいさな声で、
「その箏《こと》でなんか弾《ひ》いて見ましょうか、真っ黒になってて、鰹節《かつぶし》みたいな古い箏だけれど、それは結構な音《ね》を出すの。」
 虫の好《い》い話で、浜子は他人《ひと》さまの名器でよき曲を、わたしの耳に残してくれようというのだ。わたしも横道《おうどう》にも、
「やってよ、箏爪《ことづめ》はなくたって好《い》い。」
「いえ、それはあるにはある。」
 浜子は、何処《どこ》からか、たしなみの箏爪の袋を出した。なるほど鰹節のように黒く幅のやや細い箏《そう》の琴が持ち出されると、膝に乗せて愛撫《あいぶ》した。毛氈の上では華やかに、もうはじまりだした。お対手《あいて》の弾手《ひきて》や三味線の方の女《ひと》も現れて来て、琴の会のような賑《にぎわ》しいことになっている。
 鼓《つづみ》の箱も運び出されて来た。鼓と謡《うたい》は堂に入《い》っているといわれている彼女《ひと》だった。
「おやおや、この分では、仕舞《しまい》まで拝見するのかもしれない。」
 浜子は、むずとして、軽く古い箏《こと》の絃《いと》に指を触れながら、そんなしゃれを言った。

       二

 その名箏《めいそう》も、あの大正十二年の大震災に灰燼《かいじん》になってしまった。そればかりではないあの黒い門もなにもかも、一切合切《いっさいがっさい》燃えてしまったのだ。軽井沢の別荘から沓掛《くつかけ》の別荘まで夏草を馬の足掻《あが》きにふみしかせ、山の初秋の風に吹かれて、彼女が颯爽《さっそう》と鞭《むち》をふっていたとき、みな灰になってしまった。
「衷《ちゅう》が、あなたならお目にかかるというから、私の部屋に寄ってよ。」
と、あの時、大囲炉裡《おおいろり》に、大茶釜《おおちゃがま》をかけた前に待っていたむつむつしたような重い口の博士は諧謔《かいぎゃく》家だったが、その人も震災後の十四年に亡《なく》なられた。
 時代ははっきりと変ってしまった。欣々女史の栄華がなくなってしまったからとて、彼女の才能は決してにせもの[#「にせもの」に傍点]ではない。だが、激しい世相の転回があった。世界的な思潮の動揺にも押しゆさぶられていた。
 せわしさに、昨日《きのう》の人を思出していられないというふうな、世の中の目まぐるしさだった。
 ある日、浜子が来て、
「そこまで、江木《えぎ》さんが来たのだけれど、急がしいといけないから、また来ますって。」
「あら、帰ったの。」
 あたしは惜《おし》がった、それはいつぞや、帰りぎわに、淡路町の邸《やしき》で、静な室を二室抜いて、彼女の篆刻《てんこく》が飾ってあったのを見せられた時、どれか上げたいといったのを、またの時にと急いで帰ったばっかりに彼女の篆刻は、あすこに並べてあっただけは、一個《ひとつ》も残らず焼失したことの惜《おし》さを、なぐさめてあげたい思いで一ぱいだったからであった。
 欣々女史の書画――篆刻の技《わざ》は、素人《しろうと》のいきをぬけて、斯道《しどう》の人にも認められていたのだ。
 丁度、私は牛込左内町《うしごめさないちょう》の坂の上にいて、『女人芸術《にょにんげいじゅつ》』という雑誌のことをしている時だった。二階の裏窓から眺めると、谷であった低地《ひくち》を越して向うの高台《たかみ》の角の邸《やしき》に、彼女は越《こ》して来ていた。浜子もあまり遠くないところに移って来ていた。
「もう直《じき》に、練馬《ねりま》の、豊島園《としまえん》の裏へつくった家《うち》へ越すので『女人芸術』のと、あなたのとの判《はん》をこしらえてあげたいって。」
 そういった浜子は、何処かさびしげだった。自分も、横浜のとても好《い》い住居《すまい》も若い時から造らせた好い箏《こと》も、なにもかも震災の難にあって、命だけたすかった、身に覚えのある痛手《いたで》なので、
「江木さんもさびしいでしょうよ。」
と、たった一人の孤独なので、此処まで来るにも、手提《てさ》げを二ツ、鍵《かぎ》やら銀行の帳面やら入れてさげてこれは大切だといったと語った。あの女性《ひと》が――と、聴くものも、いうものも、ただ顔を見合った。また、その次だった。もうその時分には、練馬の新築に越していたのだが、
「江木さんところから今朝《けさ》、真新らしい萌黄《もえぎ》から草《くさ》の大風呂敷包《おおぶろしきづつみ》がとどいたから、何がこんなに重いのかと思ったらば、土のついた薩摩芋《おいも》で。」
と、浜子はおかしがりながら、何か気にかかるふうでもあった。
 それから間もなく、彼女
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