江木欣々女史
長谷川時雨
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)神田淡路町《かんだあわじちょう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)見|馴《な》れ
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)海※[#「さんずい+粛」、第4水準2−79−21]《つなみ》
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一
大正五年の三月二日、あたしは神田淡路町《かんだあわじちょう》の江木家《えぎけ》の古風な黒い門をくぐっていた。
旧幕の、武家邸《ぶけやしき》の門を、そのままであろうと思われる黒い門は、それより二十年も前からわたしは見|馴《な》れているのだった。わたしは日本橋区の通油町《とおりあぶらちょう》というところから神田|小川町《おがわまち》の竹柏園《ちくはくえん》へ稽古《けいこ》に通うのに、この静な通りを歩いて、この黒い門を見て過ぎた。その時分から古い門だと思っていたが、そのころから、江木氏の住居《すまい》かどうかは知らなかった。
「この古い門のなかに、欣々《きんきん》女史がいるのですかねえ。」
連立《つれだ》った友達は、度の強い近眼鏡を伏せて、独り笑《え》みをしていた。
「冷灰《れいかい》博士――そっちの方のお名には、そぐわないことはないけれど」
友達が言うとおりだった『冷灰漫筆』の筆は、風流にことよせて、サッと斬りおろす、この家《や》の主人《あるじ》の該博な、鋭い斬れ味を示すものだった。だが、今を時めく、在野《ざいや》の法律大家、官途を辞してから、弁護士会長であり法学院創立者であり、江木刑法と称されるほどの権威者、盛大な江木|衷《ちゅう》氏の住居の門で、美貌《びぼう》と才気と、芸能と、社交とで東京を背負《しょ》っている感のある、栄子夫人を連想しにくい古風さだった。しかしまたそれだけ薄っぺらさもなかった。含みのある空気を吸う気もちであった。
たそがれ時だったが、門内にはいるとすっかり暗くなった。
梅が薫《かお》ってくる。もう、玄関だった。
広い式台は磨かれた板の間で、一段踏んでその上に板戸が押開かれてあり、そこの畳に黒塗りぶちの大きな衝立《ついたて》がたっている。その後は三|間《げん》ばかりの総襖《そうふすま》で、白い、藍紺《あいこん》の、ふとく荒い大形の鞘形《さやがた》――芝居で見る河内山《こうちやま》ゆすりの場の雲州《うんしゅう》松江侯お玄関さきより広大だ、襖が左右へひらくと、黒塗金紋|蒔絵《まきえ》のぬり駕籠《かご》でも担《かつ》ぎだされそうだった。
「これはどうも――平民は土下座《どげざ》しないと――」
と、平日《いつも》は口重《くちおも》な、横浜生れではあるが、お母さんは山谷《さんや》の八百善《やおぜん》の娘であるところの、箏《こと》の名手である友達は、小さな体に目立《めだた》ない渋いつくりでつつましく、クックッと笑った。
気持ちの好《い》い素足《すあし》に、小倉《こくら》の袴《はかま》をはいた、と五|分苅《ぶが》りの少年書生が横手の襖の影から飛出して来て広い式台に駈《か》けおりて、
「どうぞ。」
と、招いた客の人相をよく言いきかされて、呑込《のみこ》んでいるように笑顔で先導する。
次の間には、女の顔が沢山出むかえた。
「さあ、こちらへ、さあこちらへ。」
招じられた客間は、ふかふかした絨毯《じゅうたん》、大きな暖炉《ストーブ》に、火が赤々としていた。
春には寒い――日本の弥生宵節句《やよいよいぜっく》には、すこしドッシリした調子の一幅《いっぷく》の北欧風の名画があったともいえようし、立派な芝居の一場面が展開されるところともいえもしよう形容を、と見るその室内は有《も》っていた。
欣々夫人の座臥《ざが》居住の派手さを、婦人雑誌の口絵で新聞で、三日にあかず見聞《みきき》しているわたしたちでも、やや、その仰々しい姿態《ポーズ》に足を止《とど》めた。
客間《へや》の装飾は、日本、支那、西洋と、とりあつめて、しかも破綻《はたん》のない、好みであった、室の隅《すみ》には、時代の好《よ》い紫檀《したん》の四尺もあろうかと思われる高脚《たかあし》の卓《だい》に、木蓮《もくれん》、木瓜《ぼけ》、椿《つばき》、福寿草などの唐《から》めいた盛花《もりばな》が、枝も豊かに飾られてあった。大きなテーブルなどはおかないで、欣々女史はストーブに近くなかば入口の方へと身をひらいて、腕凭椅子《うでかけいす》のゆったりしたのにゆったりと凭《よ》りかかっていた。
彼女は、驚嘆したであろう客の、四《よ》つぶの眼の玉を充分に引きよせておいて、やおら身じろぎをした。立上って、挨拶《あいさつ》をしようとするのだ。
それまでに、わた
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