は自殺したのだ。昭和五年の二月二十日、京都の宿で、紋服を着て紫ちりめんの定紋《じょうもん》のついた風呂敷で顔を被《おお》って、二階の梁《はり》に首を吊《つ》っていた。
 彼女は、愛媛《えひめ》県令|関《せき》氏のおとしだねで、十六歳の女中の子に生れた。明治十年の出生であったが、もの心づいた時は、京橋区|木挽町《こびきちょう》、現今《いま》の歌舞伎座の裏にあたるところの、小さな古道具屋が養家だった。後《のち》に、養母《やしないおや》は、江木家へ引きとられていたが、養家では、生みの男の子には錺職《かざりしょく》ぐらいしか覚《おぼ》えさせなかったが、勝気な栄子《えいこ》には諸芸を習わせた。
 新橋に半玉《おしゃく》に出たが、美貌《びぼう》と才能は、じきに目について、九州の分限者《ぶげんしゃ》に根引きされその人に死《しに》別れて下谷講武所《したやこうぶしょ》からまた芸妓《げいしゃ》となって出たのが縁で、江木衷博士夫人となったのだ。関家が東京に住み、令嬢のませ子さんが第一女学校に通学していた十五の時、江木衷氏の夫人はあなたの姉さんだといってると知らせてくれた友達があって、それが逢うきっかけとなった。けれど、もう父の関氏はこの世の人ではなかった。
 今年の二月二十日、わたしはふと、ませ子さんに欣々さんの死ぬ前の様子がききたくなった。二、三日たって、相州片瀬《そうしゅうかたせ》の閑居に、ませ子さんの室《へや》にわたしは坐った。
 ませ子さんも、清方《きよかた》画伯が「築地河岸《つきじがし》の女」として、いつか帝展へ出品した美しい人である。病後とはいえ、ふと打ちむかった時、欣々さんにこうも似ていたかと思うほど、眼と眉《まゆ》がことに美しく、髪が重げだった。この女《ひと》が、大学出の子息が二人もあって、一人は出征もしていられるときくと、嘘《うそ》のような気のするほど、古代紫の半襟《はんえり》と、やや赤みの底にある唐繻子《とうじゅす》の帯と、おなじ紫系統の紺ぽいお召《めし》の羽織がいかにも落ちついた年頃の麗々しさだった。
「姉は惜《おし》い人でしたわ、育てかたと、教育のしようでは河原操《かわはらみさお》さんのようなお仕事をも、したら出来る人だったと思います。
 死ぬのなら、もっと早く死《し》なせたかった。あの通りの華美《はで》な気象ですもの。あの人の若いころって、随分異性をひきつけてい
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