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美しき裸形《らぎょう》の身にも心にも幾夜かさねしいつはりの衣《きぬ》
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「ねえ、私だって、ああなのよ、こうなのよ、ねえ、よう。」甘えるように私の手をとってゆすぶったりした。私は、「そんなら御勝手になさいまし、ただ、くしゃくしゃ語ったって、私がどうにもして上げられるもんじゃなし。」とつんと突き放したものいいをすると、その時、ほっとためいきをつきながら「もういわないから、かんにんよ。」あの時の少女のような身のこなしが、今も目に浮かんで来てしようがない。
――たあ様の歌は本当の実感から生れたものだった。
私の友よ、友の霊よ、この歌の一つ一つが、貴女《あなた》の息から生れたものなのだ、それぞれに生命《いのち》があるのだ――
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 人生の裏も底も、涙も知りつくしたはずの歌人、吉井勇《よしいいさむ》さんが『白孔雀』巻末に書いた感想をひいてみると、
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――今その手録された詠草を見ると、「薫染《くんぜん》」に収められた歌以外のものに、かえって真実味に富んだ、哀婉《あいえん》痛切なる佳作が多いような気がする。私は先ず手録された詠草の最初にあった、
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百人のわれにそしりの火はふるもひとりの人の涙にぞ足る
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の一首に、これまでの武子夫人の歌に見られなかったような情熱を覚えると同時に、かなり感激した心持でこの新しい歌集『白孔雀』の編輯《へんしゅう》に従うことが出来たのであった。
この十一月初旬、この遺稿の整理をしに往《い》った別所温泉は、信濃路《しなのじ》は冬の訪れるのが早いのでもう荒涼たる色が野山に満ちて、部屋の中にいても落葉の降る音が雨のように聴えた。が、手録の詠草を一首々々読んでゆくうちに、私の耳にはだんだんそんなもの音も聴こえなくなった。私は真実味の深い歌が見出される度《たび》ごとに、若うして世を去った麗人を傷《いた》むの情に堪《た》えなかったのである。
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死ぬまでも死にての後もわれと云ふものの残せるひとすぢの路
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そういう死をうたった歌や、
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この胸に人の涙もうけよとやわれみづからが苦しみの壺
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といったような悲しみの歌を読むと、私の目はひとりでに潤《うる》んだ。
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たまゆらに家を離れてわれひとり旅に出でむと思ふときあり
たたかへとあたへられたる運命かあきらめよてふ業因《ごういん》かこれ
うつくしき人のさだめに黒き影まつはるものかかなし女《おみな》は
そのことがいかに悲しき糸口と知らで手とりぬ夢のまどはし
まざまざとうつつのわれに立ちかへり命いとしむ青空のもと
しかはあれど思ひあまりて往《ゆ》きゆかばおのがゆくべき道あらむかな
何気なく書きつけし日の消息がかばかり今日のわれを責むるや
酔ざめの寂しき悔は知らざれど似たる心と告げまほしけれ
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こういう寂しい心境をうたった歌を読んで、その人がもうこの世にないということを考えると、人生、一路の旅の、果敢《はか》なさを思わずにはいられなかった。――『白孔雀』から――
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 吉井さんにしても、※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子《あきこ》さんにしても、人世の桎梏《しっこく》の道を切開《きりひら》いて、血みどろになってこられたかたたちだ、その人の心眼に何がうつったか? ただ、寂しい心情とのみはいいきれないものではなかったろうか。白蓮さんの感想には、書かれない文字や、行間に、言いたいものがいっぱいにある気がする。遠慮、遠慮、遠慮! 昔だったらわたしなど、下々《げげ》ものがこんなことを言ったら、慮外《りょがい》ものと、ポンとやられてしまうのであろうが、みんなが武子さんを愛《いと》しむ愛しみかたがわたしにはものたらない。こんな、生きた人間を、なんだって小さな枠《わく》に入れてしまうのだろう。
 ――いや、武子さんは、御自分のしていることがお好きなのでした。御満足だったのです。一番好きなことをしていたのです。
 こういった中年男は、良致さんが大好きで、男は何をしても、細君はいとまめやかに、愛らしくという立場だから、失礼なことをいうのも仕方がない。どんな売女でももっている、女っぽさや、女の純なものがないの、けちんぼだの、勘定《かんじょう》が細かいのといった。わたしはそれに答えてはこういう。
 武子さんは、「女」を見せることを、きらったのだ、誰にも見られたくなかったのだ。わざとする媚態《びたい》があるというが、それは、多くのものに、よろこばせたい優しみを、とる方がそうとりちがえたのではないか。算当《さんとう》が細かいというのは、本願寺はある折、疑獄事件があって、光瑞法主はそのために、責《せめ》をひいて隠退され、武子さんは、婦人会の存続について大変心配された。そんなことから、日常のことにも気をつけるようになられたのだろう。『無憂華《むゆうげ》』の中の、「父に別れるまで」の一節に、
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――今思うとこんなこともあった。そのころの道具|掛《がかり》の者が知らなかったのかどうか、割れなくていいというような意味から、金《かね》の水指《みずさし》を稽古《けいこ》用に出してくれたのが、数年のあとで名高い和蘭陀毛織《オランダモウル》の抱桶《だきおけ》であったことや、また幾千金にかえられた堆朱《ついしゅ》のくり盆に、接待|煎餅《せんべい》を盛って給仕《きゅうじ》が運んでおったのもその頃であった。
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 そうした器物まで払いさげられたりして、経済のこともよくわかっていたのであろうし、それよりも、これはあとにもいうが、つまらないことで失いたくない、要用なことにと、いつも心に畳《たた》んでいられたのだと思う。

 武子さんは、あまり広く愛されて、世間のつくった型へはめられてしまって、聖なる女として、苦しんだ。その切《せつ》ないなかに生きぬいて、自分の苦しんだのとは、違う苦しみかたをしている気の毒な層の人たちを、広く愛そうとする、真に、しっかりした心の転換期がきたのではあるまいか。二十年、恋は空《むな》しいと観じ、本願寺婦人会の救済事業を通じて、心身を投じようとしたその時に、あわれ死がむかって来たのではあるまいか――
 おせっかいな世間は、武子さんが完全な人となろう、としているときに――外国にいる人も、そちらにいる方が家庭円満であったかもしれないのに、麗人に空閨《くうけい》を十年守らせるとは何事だと、あちらで職について、帰りたがらぬ良致氏を無理に東京へ転任ということにしたということだが、十年ぶりで、帰る人にも悩みは多かったであろうし、武子さんは、まぶたもはれあがるほど泣きに泣いて、こころをつくろう人世へのお化粧をしなおされたいうことだ。

 死ぬる日の半月ばかり前に、偶然に行きあったのは、かの、かりそめの別れとすかされて、おとなしく頷《うな》ずいて別れた東の御連枝《ごれんし》だった。だが、今度はかりそめの、この世での、それが長い別れになってしまった。おもいがけない病《やまい》が急に重《おも》って、それとなく人々が別れを告げに集《あつま》るとき、その人も病院を訪れたというが、武子さんは逢《あ》わなかったのだった。お別れはもう先日ので済んでおりますと、伝えさせたという。
 私が、戯曲的に考えれば、生母の円明院《えんみょういん》お藤の方が、手首にかけた水晶の数珠《じゅず》を、武子さんが見て、
 おかあさま、そのお数珠を、私の手にかけてください。
 といわれたということが、新聞にも出ていたが、その水晶の数珠は、かつて、武子さんが、御生母へあげたものだということから、その数珠には、母子だけしか知らない温かい情《もの》が籠《こも》っているかもしれないと、思うことだった。
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君にききし勝鬘経《しょうまんぎょう》のものがたりことばことばに光りありしか
君をのみかなしき人とおもはじな秋風ものをわれに告げこし
この日ごろくしき鏡を二ツもてばまさやかに物をうつし合ふなり
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 勝鬘経は、印度|舎衛《しゃえ》国王|波斯匿《はしのく》と、摩利夫人《まりぶにん》との間に生れて、阿踰闍《あゆしゃ》国王に嫁した勝鬘|夫人《ぶにん》が仏教に帰依《きえ》した、その説示だという、最も大乗《だいじょう》の尊さを説いたもので、わが聖徳太子も、推古《すいこ》女帝に講したまいし御経《おんきょう》ときいたが、君とは、父法主《ほっす》でも、兄法主でもない人を指している。

 築地《つきじ》別院に遺骸《いがい》が安置され、お葬儀の前に、名残《なご》りをおしむものに、芳貌《ほうぼう》をおがむことを許された。
 二月八日の宵《よい》だった。梅の花がしきりに匂《にお》っていた。わたしは心ばかりの香《こう》を焚《た》いて、「秋の夜」と署名した武子さんからの手紙を出して、机上においた。そこへ、安成二郎《やすなりじろう》さんが訪れられて、どうしてお別れにいって来ないのかといわれた。蘭燈《ぼんぼり》にてらされて、長い廊下を歩いていって、静《しずか》な、清らかな美しいお顔を見ると、全くこの世の人ではない気がしたといわれた。そして、どうしてゆかないのかと、再び問われた。
 あまり多くのものに、死者の顔を見せるのは嫌いだから、見られるのはお厭《いや》だろうと思うと、答えたわたしの胸には、ちょっと言いあらわせないものが走った。
 震災|前《ぜん》、あの別院が焼けない前に、ある日の日かげを踏んで、足|許《もと》にあつまる鳩《はと》を避《よ》けて歩きながら、武子さんに、ずっと裏の方の座敷で逢ったことがあった。その時ふと胸にきたものは、あんなに麗《うらら》かな面《おも》ばせで、れいれいとした声で話されるに、憂苦《ゆうく》といおうか、何かしら、話してしまいたいといったようなものを持っていられるということだった。
 その時、
「※[#「火+華」、第3水準1−87−62]《あき》さまは、どうしてあんなことをなすったのでしょうね。」
と、突然と武子さんがいった。それは、白蓮《びゃくれん》さんが失踪して間もなくで、世上の悪評の的になっているときだった。
 二人は目を見合わせたきりで、探りあう気持ちだった。この人は、もっともっと大きい苦悶《くもん》をかくしているなと、思った。

 震災に、なんにも持たずに逃《のが》れ出たが、一束《ひとたば》の手紙だけは――後に焼きすてたというが、――あの中で、おとしたらばと胸をおさえて語ったお友達がある。――そういえば、秋の夜であり、きくであり、そのほかにも、種々のかえ名があるにはあったが――
 武子さんは、もうちゃんと、ああ出来上ってしまって、あれがいいのだから、美人伝へよけいな感想なんか書いてはいけないと。知っている人たちがみんなこういう。もとより、武子さんはわたしも大事にする。けれど、もっと大胆に、いいところをいってもいい、人間らしいところを話《はなし》ても、あの方の苦節に疵《きず》はつきはしない。お人形さんに、あの晩年の、目覚《めざ》めてきた働きは出来ない。本願寺という組織に操《あやつ》られてでも、それを承知で、自分自身だけの、一ぱいの働きをするということは、ああいう場処にいる人には、あれでよいので、あらゆる事に働き出そうとしたことは、劇や舞踊の方にまで進んで、かなり一ぱいの努力だったと思う。
 そういえば、武子さんは快活な、さばけたところのあるのは、幼いときからだというが、人徳を知るのに面白い逸話がある。ある美術家のうちの床《とこ》の間《ま》に、ブロンズのドラ猫があった。埃《ほこ》りまみれでよごれているのを、武子さんは猫が好きだったが、震災で焼いてしまったので、その埃りまみれの置物を、かあいい、かあいいと撫《な》で廻していた。その事を、あとで、猫を作った某氏にその人が話して、君が逢えばきっと猫を
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