ん》な著であるので、信頼して読ませて頂いたからだ。その行間からわたしは何を見たか――
籌子《かずこ》夫人のこのお婿さん工作も、愛弟だったときけば頷《うなず》けるし、実家の嫂《あによめ》は東本願寺からきた人で、例の御連枝《ごれんし》と縁のある方《かた》であり、それらの張合もないとはいえまいが、良致氏は、籌子夫人の手許《てもと》へ引きとられていたというものがあるから、武子さんとも顔を合せていなくてはならないのに、この書では、結婚の日が初対面と記されてある。この初対面という方に従ってゆくと、これはまた、あれほど大切にしたお姫《ひい》さんを、なんと手軽にあつかったものだか――もとより何もかも、知りすぎる位にわかってる方が進めてゆくのだから、誰にも安心はあったであろうが、いやしくも人生の最大事業をおこなう男女当事者が初対面とは――無智|蒙昧《もうまい》な親に、売られてゆく、あわれな娘ならば知らず、一万円持参で、あの才色絶美、京都では、本願寺からはなすのはいやだと騒がれた美女《ひと》なのに――
籌子夫人は幾度か上京し、仕度万端、みな籌子夫人の指図《さしず》だった。
も一度。
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緋《ひ》の房《ふさ》の襖《ふすま》はかたく閉ざされて今日も寂しく物おもへとや
三夜荘《さんやそう》父がいましし春の日は花もわが身も幸《さち》おほかりし
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緋の房の襖の向うは、彼女の胸の隠家《おくが》でなくてなんであろう。
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結婚式をあげに東京へ出発、馬車のうちにはうなだれがちに、武子さんがいた。本願寺の正門から、七条の駅へ――けれども、御婚儀の日が、初対面の日なのでした。――昨日《きのう》までの武子姫は、良致男爵……その人について、何も御存じがないのでした。男爵においても、それは同じく、新夫人の性格そのほか、更に御承知はないのでした。
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[#地から1字上げ](『九条武子夫人』より抄)
――七条駅近くの大路には、東本願寺の門がある。
性格も趣昧も教養も、まさしく反対の二点にたっているとも書かれている。九月二十五日に九条家に入り、新男爵邸に即日移り、十二月には、先発の法主《ほっす》夫妻のあとを追って新婚旅行に、欧洲へ渡航する。しかも新郎は、英国に留学する約束だった。黙々読書する良致氏に、仕度の相談にゆくと、
「よろしいように」
と静かに答えるだけだったという。
印度では光瑞《こうずい》法主一行の、随行員も多く賑《にぎ》わしくなった。少女時代をとりかえしたように武子さんが振舞うと、明るい笑声のうちに、いつも姿を見せないのが良致氏であったという。籌子夫人が気にすると、船室にかくれて読書しているという。一方が明るくなると、一方はだんだん寡黙になる。
船室でお茶がすんで、ボーイが小さなテーブルの上をかたづけにくると、武子さんは立上る、
「では失礼します。」
「どうぞ。」
水の如き夫妻だ。
武子さんも気にせず、良人もそれに不満足を感じるような、世俗的なのではないと、山中氏はいっていられるが、しかし、わたしははっきり言う。それはどっちかが軽蔑《けいべつ》しているのだ。どっちかがすく[#「すく」に傍点]んでいるのだ、でなければもっと、重大な、何か、ふたりは、表向きだけの夫婦ごっこ、互に傀儡《かいらい》になったことを知りすぎているのだ。性格的相違だけには片づけられないものがある。そして、短かい外遊期間中なのに、良致男は別居してしまった。だが、武子さんは社会事業の視察、見学をおこたらなかった。
シベリア線で、籌子夫人して武子さんが帰朝ときまったとき、訣別《けつべつ》の宴につらなった良致氏は、黙々として静かにホークを取っただけで、食後の話もなく、翌日、出立《しゅったつ》のおりもプラットホームに石の如く立って、
「ごきげんよう」
と、別れの言葉は、この一言だけだとある。
良致さんという人が、この通り沈黙寡言な、哲学者かと思っていたらば、先日、ごく心やすくしていたという男の人が来て話すには、なかなか隅《すみ》におけない、白粉《おしろい》を袖《そで》や胸にもつけてくる人だというし、またある人も、気さくなよいサラリーマンだといった。新婚のころは、特別に、そんなムッとした人にならざるを得ぬことがあったものとおもえる。世間からは花の嫁御《よめご》をもらって、日本一の果報男《かほうおとこ》といわれたが、他人ではわからないものが、その人にとってないとはいえまい。
また、それでなければ、新婚三月の新夫人をかえしてしまって、滞欧十年、子までなさせて、そこの水に親しんではいられないはずだ。
三年たった。ここいらから武子さんが、麗《うる》わしい武子だけでなく、同情と、人気とその人のもつ才能とが一つになって、注目される婦人となった。武子さんはいよいよ光り、良致さんはよく言われなかった。
空閨《くうけい》を守らせるとは怪《け》しからん。と、よく中年の男たちが言っていた。操持《そうじ》高き美しき人として、細川お玉夫人のガラシャ姫よりももっと伝説の人に、自分たちの満足するまで造りあげようとした。
この間《あいだ》も、斎藤茂吉《さいとうもきち》博士の随筆中に、武子夫人が生《いき》ていられたうちは書かなかったがと、ある田舎《いなか》へいったら、砂にとった武子さんのはいせき物《ぶつ》を見て、ふといふといと下男たちが笑っていたということを記《しる》されたが、そんなばかげた事もおこるほど、よってたかって窮屈な型のなかへ押込んでいった。
三
武子さんの第一歌集『金鈴《きんれい》』を、手許においたのだが、ふととり失なってしまって、今、覚えているのは、思いだすものよりしかないが、
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ゆふがすみ西の山の端《は》つつむ頃ひとりの吾《われ》は悲しかりけり
見渡せば西も東も霞《かす》むなり君はかへらず又春や来《こ》し
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作歌の年代を知るよしもないが、これらはずっと古くうたわれたものときいている。一年半以上も外国でくらして、秋も深くなって帰ると翌年の春、籌子夫人が急逝された。その人の望みによって武子さんの生涯は定まってしまったのに、それを望んだ人は死んでしまって、妻という名の、桎梏《しっこく》の枷《かせ》をはめられて残された武子さんの感慨は無量であったろう。全く運命というものは変なものだ。
しかし、おかくれ遊ばした総裁様の御遺志をお伝えするが使命と、武子さんのうるわしい声が、各地巡回宣伝にまわられると、仏教婦人会の新会員は増えてゆくばかりなので、九条武子となっても、本願寺に起臥《おきふし》して、昔にもまさって本願寺の大切な人であった。そして、思い出したように、お美しい方が空閨に泣くとは、なぞと、時々書いたりいわれたりしたが、武子さんの場合だけは、それが不自然ではなく、なんとなくそれで好《い》いような気がしていた。語らざる了解があるように思われた。そうしているほうが、お互が気楽なのではないかと思えた。
遺稿和歌集の『白孔雀《しろくじゃく》』をとって見ると、
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百人《ももたり》のわれにそしりの火はふるもひとりの人の涙にぞ足《た》る
その一歩かく隔りの末をだに誰《たれ》かは知りてあゆみそめむぞ
この風や北より吹くかここに住むつめたき人のこころより吹く
この胸に人の涙をうけよとやわれみづからがくるしみの壺
おもひでの翼《つばさ》よしばしやすらひて語れひとときその春のこと
影ならば消《け》ぬべしさはれうつそ身のうつつに見てしおもかげゆゑに
引く力|拒《こば》むちからもつかれはてて芥《あくた》のごとく棄《す》てられにしか
たまゆらに家をはなれてわれひとり旅に出でむと思ふときあり
たたかへとあたへられたる運命かあきらめよてふ業因《ごういん》かこれ
執着も煩悩《ぼんのう》もなき世ならばと晴れわたる空の星にこと問ふ
空《むな》しけれ百人《ももたり》千人《ちたり》讃《たた》へてもわがよしとおもふ日のあらざれば
夢寐《むび》の間《ま》も忘れずと云《い》へどわするるに似たらずやとまた歎けりこころ
むしろわれ思はれ人《びと》のなくもがなあまりに病めばかなしきものを
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[#地付き]――滞洛手帖十四首の中から――
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ふるさとはうれし散りゆく一葉《ひとは》さへわが思ふことを知るかのやうに
ふるさとはさびしきわれの心知れば秋の一葉《ひとは》のわかれ告げゆく
叫べども呼べども遠きへだたりにおくれしわれの詮《せん》なきつかれ
岐《わか》れ路《じ》を遠く去り来《き》つ正しともあやまれりとも知らぬ痴人《しれびと》
夕されば今日もかなしき悔《くい》の色|昨日《きそ》よりさらに濃さのまされる
水のごとつめたう流れしたがひつ理《ことわ》りのままにただに生きゆく
[#ここで字下げ終わり]
震災後|下落合《しもおちあい》に家を求めてからを知っている人が、武子さんの日常を、バサバサしたなつかしみのない、親分の女房みたいだと評し、わざとらしいしな[#「しな」に傍点]をつくるが、電話の声と地声とはちがい、外から帰ると寛袍《どてら》にくつろぎ、廊下は走りがちに歩く、女中にきいてみたら、京都へゆく汽車の中では、ずっと身じろぎもしないで、座ったままだというのに――と、良致さんとの夫妻生活を、およそ男性のもとめるイットのないものとくさ[#「くさ」に傍点]したが、わたしは胸が苦しかった。武子さんはもうそのころ自分の表面的な職分と、自分の心だけでいるときとの、けじめ[#「けじめ」に傍点]がはっきりついて、卑近な無理解など、どうでもよいとの決心がついていたにちがいない。なぜなら、その人がいったようなただ、あざ[#「あざ」に傍点]けた女《ひと》に、こんな心の声があろうか、
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さくら花散りちるなかにたたずめばわが執着のみにくさはしも
ちりぢりにわがおもひ出も降りそそぐひまなく花のちる日なりけり
さくら花散りにちるかな思ひ出もいや積みまさる大谷《おおたに》の山
まぼろしやかの清滝《きよたき》に手をひたし夏をたのしむふるさとの人
やうやくに書きおへし文いま入れてかへる夜道のこころかなしも
[#ここで字下げ終わり]
これはみんな、世にない人を思い出した歌ではない。ふるさとの人とは、誰をさしていったものだろう、そんなことは言っては悪いと叱られるかもしれない。だが、それだからこそ人間ではないか、それだからわたしは武子さんが悲しく、そして忘れないのだ。ただ、わたしはいう、あの豪気な、大きい心の人が、なぜその苦しみとひたむきに戦わなかったか、この人間の苦しみこそ、宗祖|親鸞《しんらん》も戦って戦いぬいて、苦悩の中に救いを見出《みいだ》し大成したのではなかろうか、良致氏が外国で家庭生活をもっていたことが、かえって武子さんを小乗的《しょうじょうてき》にしてしまったのかもしれない、仏教のことばなんかつかっておかしいが、そんなふうにもおもえる。さし詰《せま》った苦しさというものは、勇気を与えるが、それも長く忍んでいると詠歎的になってしまうものだ。
『白孔雀』の巻末に、柳原|白蓮《びゃくれん》さんが書いているから、すこし引いて見よう、
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百人《ももたり》のわれにそしりの火はふるもひとりの人の涙にぞ足《た》る
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第一この歌に私はもう涙ぐんでしまった。あのたあ様は本当に深い深い胸の底に涙の壺を抱いていた人だった。
私が今の生活に馴《な》れるまでの間を、たあ様はどんなに励まし、かつ慰めてくれたことであったろう、「貴女《あなた》は幸福よ。」この一言によって私は考えさせられた。人というものはどうかすると自分の幸福を忘れている事がある。幸福だという事を忘れれば幸福にはぐれてしまう、という事を教えられた。私は何といってあの方に感謝していいかわからない。人こそ知らね私には深い思いがあるからである。
[#こ
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