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 それよりさきに、若き新門様光瑞師は、外国にいたときに、愛妹武子さんの将来を托す人をたった一人選みだしたのだった。よき伴侶《はんりょ》と見きわめ、妹を貰《もら》ってくれといったのだというふうに、わたしはきいている。私は一連枝《いちれんし》にすぎないからと、先方は一応辞退されたのを、人物を見込んで言いだした人は、地位などで選みはしなかったのだから、二人だけの約束は結ばれた。帰朝すると、夫人にもその事は話され、武子さんもきいて、その人も帰ると表向きの訪問が許され、内園を、連れ立っての散歩も楽しげだったというのに、それはどうして破れたのか――
 その間《かん》の消息は、山中氏の著書ばかり引くようだが、
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あらためて申すまでもなく、才貌《さいぼう》ともにお麗《うるわ》しく気高い武子姫に、御縁談の申込みは、すでに方々から集まっていました。中にも、先ず指を折られるのは、東本願寺の連枝(法主の親戚《しんせき》)の方でした。(中略)東本願寺の連枝へ、武子姫が入輿されますと、両家の間はいよいよ親密に結ばれることになるのでした。しかしながら、西本願寺の重職の人々にしてみますと、法主の妹君として、まして世に稀《ま》れなる才能と、比《たぐ》いなき麗貌《れいぼう》の武子姫が、世間的に地位なく才腕なき普通の連枝へ、御縁づきになる事は、法主鏡如様の権威に関《かか》わり、なお自分たち一同の私情よりしても、堪えられないことに思われるのでした。――
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 おお! まあ、そんなことで否決して、会議は幾度も繰りかえされたのだ。
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「明如《みょうにょ》様(光尊師)が御在世ならば、御一存ですぐ決まるのだけれど……」
「――たあさまが家格の低い所へ御縁づきというのでは、我れ我れが申訳《もうしわ》けないことになる。」
「それは無論、御在世ならば、先方の人物本位にと仰せられるに相違はない。」
「いや、しかし、子爵以下では、何とも当家の権威に係《かかわ》る」――(『古林の新芽』、一五二頁)
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 おお! まあ、なんと、そんなことで、華族名鑑をもってきても、選考難に苦しんだとは――
 ここで、前記の、
「お前たちが選考してよろしい、己には今、これという心当りがない。」
という光瑞師のいったことが、まことに痛切に響いてくる。
 私は一連枝にすぎないからと、一応辞退したというその人にも先見の明がある。私はその名もきいたが――
「世間的の地位なく」と断わるのは、若い人にむかって無理だと誰しもおもおう。それは、東の法主の後嗣者でもないのにという意味にとればわかる。だが、「才腕なき普通の連枝」とは、失礼なことを言ったものだ。この人、先ごろからの、東本願寺問題に、才腕ある連枝だとの評が高い。
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かりそめの 別れと聞きておとなしう うなづきし子は若かりしかな
三夜荘《さんやそう》 父がいましし春の日は花もわが身も幸《さち》おほかりし
緋《ひ》の房《ふさ》の襖《ふすま》はかたく閉ざされて今日も寂しく物おもへとや
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[#地から2字上げ]――『金鈴《きんれい》』より――

       二

 東西本願寺の由来は、七百年前、親鸞聖人の娘、弥女《いやにょ》が再婚し、夫から譲られた土地に、父親鸞上人の廟所《びょうしょ》をつくったのにはじまる。この弥女は覚信尼《かくしんに》といい、この人の孫が第三世|覚如《かくにょ》。親鸞の子|善鸞《ぜんらん》から、如信《にょしん》となり、覚信尼の孫、覚如の代となるまでには、覚信尼は創業の苦労と煩悩《ぼんのう》もあったわけだった。八世の蓮如《れんにょ》上人の時、伝道|教化《きょうげ》につとめ、九世実如のとき、準門跡の地位にまでのぼったのだ。十世|証如《しょうにょ》のころは戦国時代ではあり、一向一揆《いっこういっき》は諸国に勃発《ぼっぱつ》し、十一世|顕如《けんにょ》に及んで、織田信長と天正《てんしょう》の石山合戦がある。
 石山本願寺は、現今《いま》の大阪城本丸の地点にあって、信長に攻められたのだが、一向宗は階級的な強さがあるので、負けるどころではなかったが、綸旨《りんし》が下《くだ》って和議となったのだった。天正十九年に、豊臣秀吉《とよとみひでよし》から現在の、京都下京堀川、本願寺門前町に寺地《じち》の寄附を得た。しかし、この時に今日《こんにち》の東西本願寺――本願寺派本山のお西《にし》と、真宗大谷派本願寺のお東《ひがし》とが分岐した。東は、西の十一世顕如の長子教如の創建で、長子が寺を出たということには、意見の相違があり、閨門《けいもん》の示唆によって長子が退けられたともいわれている。
 東本願寺教如上人は、徳川家康の寄進で、慶長七年に六町四方の寺地を七条に得、堂宇も起してもらったが、長子であって本山を追われたという苦い経験が、世々代々、長子伝燈の法則が厳しい。そこに、いかなる凡庸でも長子より法主なくということになり、見込みのある御連枝《ごれんし》(兄弟、近親)でも、御出世はないものと見られ、せめて子爵でなくとも、男爵ででもおありならと、武子さんの配偶が断られた訳もそこにある。三百年間親戚としての往来はおろか、敵視状態だったのが、明治元年に絶交を解いて、交際が復活したからとて、両方の法主――光尊、光瑩の両裏方を、お互いに養女としあって、戸籍上の姻戚関係をむすんだといっても、お宝《たから》娘の武子さんを、となると、惜んだもののあったのも、わからなくもない。
 本願寺さんのお姫《ひい》さんは、本願寺さんのでおきたいと、京都の人たちは惜んでいるというのも、いつまでもあの麗人がお独身《ひとりみ》でと、案じているというのも、結びあわせてみると、卑俗な言いかただが、西から東へ人気が移る憂いは充分ある。お西さんからお東さんへ、掌《て》のなかの玉をさらわれるふうに考えたものもなくはあるまい。
 なんと、因襲と伝統の殻との束縛よ、進取的な、気宇の広い若人《わこうど》たちには住みにくい世界よ、熟議熟議に日が暮れて、武子さんの心はぐんぐんと成長してゆく、兄法主には、大きく世界の情勢を見ることを啓発され、うちにはロシアとの戦争に、報国婦人団体が結成され、仏教婦人会の連絡をとり、籌子《かずこ》夫人について各地|遊説《ゆうぜい》に、外の風にも吹かれることが多くなって、育ちゆく心はいつまでおかわいいお姫《ひい》さまでいるであろうか。人を見る目も出来れば人の価値も信実もわかってくる。阿諛《あゆ》と権謀の周囲で、離れてはじめて貴《たっ》とさのわかるのは真《まこと》だけだ。
 一葉《いちよう》女史の「経《きょう》づくえ」は、作として他《ほか》のものより高く評価されていないが、わたしはあの「経づくえ」のお園の気持ちを、いまでも持っている女はすけなくはなったであろうが、あるとおもう、明治年代の、淑《しと》やかに育てられた、つつしみぶかい娘には、代表してくれている涙を包んでいる。あの中には、一葉女史の悲恋をも多分にふくめているが、武子さんにあの読後感をききたいとおもいもした。無論、あすこはぬけ出てしまって雑誌『白樺《しらかば》』の武者小路《むしゃのこうじ》氏の愛読者となったのは、心持ちが整理されてからではあろうが、別れてのちに、しみじみと知るまたとなきその人のよさ、世をふるにしたがって、思いくらべて惜しむ心はなかなかにあわれは深い。
 もとよりわたしは、たしかにそうと断定しない。わたしがその人の口からきいたのではないから。それにもかかわらず、わたしはいたましく思い、人世とはそんなものだとしみじみと感じる。もしそこに、若き灼熱《しゃくねつ》の恋があったら、桃山御殿の一部で、太閤《たいこう》秀吉の常の居間であったという、西本願寺のなかの、武子さんが住んでいた飛雲閣《ひうんかく》から飛出されもしたであろうし、解決は早くもあったろうに、若き御連枝はムッとしてそのまま訪問されず、しかも、その人も配偶をむかえてから、代《かわ》る女《もの》はなかったとの歎《たん》をもたれたのだから悲しい。
 も一度、
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かりそめの 別れと聞きておとなしううなづきし子は若かりしかな。
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 この歌は、嫁《とつ》がれてのち、夫君《つまぎみ》を待って読んだ歌だと解釈されているけれど、もうそのころ、武子さんは二十三歳、令嬢としては出来上りすぎている立派な人だった。十八に、十七に、十九におきかえて考えると、おとなしううなずきし子が目に見えてくる。

 爵位局より発布の「尊族簿」が幾度もひっくりかえされているうちに、日は経《た》ってゆく。お家柄第一、二十六、七歳より三十歳までの若様で、勝《すぐ》れた家の爵位を嗣《つ》ぐ人、宗教は浄土真宗。これだけ具備した人を探しだそうとするのだが、幾度繰っても頁数はおなじで、いなかった人物が紙の上に飛出してくるはずもない。ここまで来て籌子《かずこ》夫人から、天降《あまくだ》り案が提出されたのだから、捏《こ》ね廻してしまったものには具合がよかったと、ことが運んだわけだった。
 山中氏の『九条武子夫人』百六十二頁に、
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――重職会議へ極めて内々のお諮《はか》りがありました。御生家《ごせいか》の九条公爵の御分家たる良致《りょうち》男爵を選考するようにとの、それは夫人よりの直接の御相談なのでした。
籌子夫人は十一歳の時に、鏡如様のお許嫁《いいなずけ》として、大谷家へ入輿せられ、幼き日より朝夕を、武子姫と共に――良致男爵は籌子夫人の弟君に当られます。なお、夫人の妹君には九条家に※[#「糸+壬」、第3水準1−89−92]子《きぬこ》姫がいられるのでした。ことに、良致男爵へ武子姫が、なおまた鏡如様の弟君の惇麿《あつまろ》様(光明師)へ※[#「糸+壬」、第3水準1−89−92]子姫が、御縁づきになりますことは、籌子夫人御自身の深いお望みなのでした。その暁には、九条家と大谷家との御兄弟が、互にお三方《さんがた》とも御結婚になり、両家にとりてこの上のお睦《むつ》みはないのでした。
籌子お裏方《うらかた》より直接のお諮《はか》りを受けまして、重職の人々は、九条良致男爵を、初めて選考の会議に上すようになりました。それまでは、子爵以上とのみ考えていたのです。
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 なぜ、子爵だ、男爵だというのか、それは前に、東の御連枝という人を、無爵だといって断わったからで、男爵というのに拘《こだ》わるのも、それでは男爵になれるようしますからとまでいって来たのを、すくなくも子爵でなくてはと拒絶したといわれているのを、わたし自身が頷《うなず》くために、引いてみたのだが、良致氏は前から男爵ではなく、武子さんを娶《めと》る前になったのだった。
 良致氏はお気の毒な方《かた》で、やったり、とったりされた人だった。ずっと前に他家へゆかれ、それから一条家の令嬢の婿金《むこがね》として、養われていたが帰されて――やっぱりこれも例をひいた方がよいから、山中氏の前のつづきを拝借すると、
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――かつて一条公爵家の御養子として、暫《しばら》く同家に生活していられました。それは、元来一条家よりの懇《ねんご》ろなお望みがありまして、御結縁《ごけちえん》になったのでした。しかし、家風《かふう》の上から、その後《のち》、男爵は再び九条家へ、お復《かえ》りになったのでした。(前掲一七四頁)
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 なぜ、この山中氏の著書からばかり引例にするかといえば、材料の蒐集《しゅうしゅう》に、『婦人倶楽部』の多くの読者と、武子さんの身近かな人々からも指導と協力を得ているといい、筆者はもうすにおよばず、発行が、野間清治氏の雄弁会出版部であり、およそ間違いのないものであること、著者の序に、初校《しょこう》を終る机のそばに、武子さんが、近く来《きた》りていますように感じつつ、合掌、と書かれた敬虔《けいけ
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