たものがあったのだと思わせられた。死んでしまった、古い宗教から脱《ぬ》けて、自分の救いを――と、いってわるければ、新しくゆく道を探《たず》ねていた人ではないかと、思っていたことにこの一節がぴたときたのだった。

 武子さんを書く場合に、普通常識ではかりきれないものがあるということを、はっきりさせておかないと具合がわるい。身分があるとか、金持ちだとかいうのとは、また異《ちが》っている。それらの人たちからも拝まれてもいれば、一般からもおがまれている。ある時は人間であり、ある時は阿弥陀さまと同列に見られ――見る方が間違っているのだが、特別人あつかいで、それが代々、親鸞聖人《しんらんしょうにん》以来であり、しかもその祖師は、苦難をなされはしたが、もとが上流の出であり、いかなる場合にも凡下《ぼんげ》とはおなじでなく、おがまれ通してきた血であることだ。本願寺さまは本願寺さまでなければならぬところを、大谷家《おおたにけ》になり、子爵と定まり、伯爵となったが、それだけでも門徒には大打撃だったのだ。生仏《いきぼとけ》さまの血脈《おちすじ》が、身分が定まってしまったのだから、信徒の人々には一大事で浅間《あ
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