能とが一つになって、注目される婦人となった。武子さんはいよいよ光り、良致さんはよく言われなかった。
空閨《くうけい》を守らせるとは怪《け》しからん。と、よく中年の男たちが言っていた。操持《そうじ》高き美しき人として、細川お玉夫人のガラシャ姫よりももっと伝説の人に、自分たちの満足するまで造りあげようとした。
この間《あいだ》も、斎藤茂吉《さいとうもきち》博士の随筆中に、武子夫人が生《いき》ていられたうちは書かなかったがと、ある田舎《いなか》へいったら、砂にとった武子さんのはいせき物《ぶつ》を見て、ふといふといと下男たちが笑っていたということを記《しる》されたが、そんなばかげた事もおこるほど、よってたかって窮屈な型のなかへ押込んでいった。
三
武子さんの第一歌集『金鈴《きんれい》』を、手許においたのだが、ふととり失なってしまって、今、覚えているのは、思いだすものよりしかないが、
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ゆふがすみ西の山の端《は》つつむ頃ひとりの吾《われ》は悲しかりけり
見渡せば西も東も霞《かす》むなり君はかへらず又春や来《こ》し
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作歌の年
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