い書籍《ほん》も買って来てくれた。あたしはまた、解ろうがわかるまいがむずかしいものに噛りついて、餓えきった渇きを癒した。だが、道楽息子が直きにまた勘当されたとき、この時こそ自分だけで自分を生かす時機《とき》がきたと、離婚のことを言い出すと、先方の親たちは妙なことを言い出した。悴の嫁にもらったのではない、家の娘にもらったのだ。だから、何処へいっても嫁とはいわなかった、娘だといってきていた、実子の娘だと言っていたではないか、帰さないと。
あたしは世間知らずだった。自己のことにばかり目がくらんでしまって、明瞭《はっきり》した眼をもたなかった。真の愛情がないものが、なんでそんなことを言うのか――変だとは思わないで、ただ厭だとばかり思った。だから、厭さが昂じて死にそうな病気ばかりした。生まれた土地に名声のある我が家を、古鉄屋から紳商になりかけた家が、利用するのを察知しなかった。父の身辺にすこしの危惧も警戒もしなかった。
父は、前にも言った通り、自由党の最初に籍をおいたが、脱党して以来口ぐせのように、法律も身にあった職業ではない、六十になったら円満にこの家業もやめると、子供であったあたしなどにさえ、時折り洩らしていたほどで、あたしを相手に茶をたてたり、剣を磨いたり、下手な俳句をひねったりして、よく母に、あなたが発句《ほっく》をつくるので考え込むから、おやすが真似をして溜息をつくと、間違った抗議をしたものだった。父は幼少のあたしを連れて、撃剣の会へいったり、釣堀にいったり、政談演説会へいったりした。種々な名誉職をもって来られても、迷惑だと断わるのがつねだった。よんどころなく弁護士会長とか、市の学務委員とか、市参事会員とかにはなっていたが、恬淡な性質で、あばた[#「あばた」に傍点]があるので菊石《きくせき》と号したりしたのを、小室|信夫《しのぶ》氏が、あまりおかしいから溪石《けいせき》にしろと言ったというふうな人柄だった。
しかし、父の酒飲みなのを知って舅たちが毎夜酒宴を張って、料亭に招じるのを、あたしは見まい聞くまいとばかりしていた。いつであったか、父は米国から帰って来た星亨氏に内見を申し込まれ、星氏が総理大臣になることがあったら、父に市長になってくれと言われたが、嫌だと言ったということは、あたしに話したが――どうも、あたしの婚家のいやな気風が、生家の、あのものがたい家憲の一角を、ぶちこわしている気がして、不安に思いながら、あたしは父と母にも遠くなっていた。
父は、不名誉な鉄管事件というものに連座した。父は手紙でもって言ってよこした。
長く考えていた良いことを、ちょっとした短いみじかい分時にぶちこわしてしまった。間違った思慮は一分時で、悔いは終生だ、子供に済まない――
あたしは、それを読んでやっぱり父だったと嬉しく思った。誰のことも、そのよってきた道程もいわない、すべてをみんな自分で背負おうとしているのに、あたしは父を見た。よし、あたしは、この後自分のゆるさぬ曲がったことを一分もすまい、潔癖すぎて困るほど清廉に生きて、父のあやまちは性分ではなく、弱さから負った過失だ。自己の罪として受けた心根を知るあたしだけが、銭を愛さず、事志とちがった父の汚名を、心だけで濯《すす》ごうと思いをかためた。
で、読み、書くために自立しようとして来たそれまでの志望《こころざし》を曲げて、まず、人間修業から出直しすることにした。独立するまで、二度は帰るまいと立ち出た実家へ帰って、病をやしない、すこし快くなると釜石鉱山へ行った。そこで三年もすごせば勘当息子の帰参が叶うという約束のもとに行ったのだ。そのあとであたしはあたしの道へ出ようと思った。鉱山所長の横山氏夫妻が、その息子一人では預かれぬと言ったから、行ってもらいたいというのが、先方の両親の願いだった。
事件の最中で、心弱くなっていた父は、病みやつれたあたしを上野駅まで見送ってくれて、二度とやりたくないのだがと呟いていた。しかし、この山住みの丸三年は、あたしに真の青春を教えてくれた。肝心の預けられた息子は居たたまれなくて、何かにつけて東京へ帰って長くいるので、あたしは独居の勉強が出来た。県道からグッと下におりて、大きな岩石にかこまれた瀬川の岸に、岩を机とし床として朝から夕方まで水を眺めくらして、ぼんやりと思索していた。ある時は、水の流れに、書いても書いても書きつくされないような小説を心で書き流していた。「一元論」を読み、「即興詩人」を読み、馴れない積雪に両眼を病んで、獣医も外科医も、内科も歯科もかねる医者に、眼の手術をしてもらって、それでも東京へは出ず、頑固に囲爐裏のはたや炬燵のなかで、繃帯をした眼で、大きな字を書いて日を送っていた。
横山所長は、釜石鉱山をものにするまでに、座敷牢へ入れて止められ
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