渡りきらぬ橋
長谷川時雨
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)妹弟《きょうだい》が
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)丁度|御維新《ごいっしん》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)木※[#「木+解」、第3水準1−86−22]《もっこく》や
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一
お星さまの出ていた晩か、それとも雨のふる夜だったか、あとで聞いても誰も覚えていないというから、まあ、あたりまえの、暗い晩だったのであろう。とにかく、あたしというものが生まれた。
戸籍は十月の一日になっているが、九月廿八日だとか廿九日だとか、それもはっきりしない。次々と妹弟《きょうだい》が生まれたので、忘れられてしまったのか、とにかく、露の夜ごろ、虫の音のよいころではあるが、あいにく、武蔵野生まれでも、草の中でも、木の下でも生まれず、いたって平凡に、市中の、ある家の蔵座敷で生をうけた。明治十二年、日本橋区通油町壱番地。ちっぽけな、いやな赤ん坊だったので、何処からか帰って来て見た父は、片っぽの手にとって見てすぐ突きかえしたと、よく母が言っていた。
父には三人目の子、母には初児《ういご》だが、あたしが生まれたときには、姉も兄も、みな幼死していなかった。清潔《きれい》ずきで、身綺麗だった祖母に愛されたとはいえ、祖母はもう七十三歳にもなっていたので、抱きかかえての愛ではなく、そしてまた、祖母の昔気質から、もろもろのことを岨《はば》まれもしたり、そのかわりに軽薄に育たなかったという賜ものをも得た。
次へ、次へ、次へと、妹が三人、その次へ弟が二人、また妹が一人と、妹弟が増えて、七人となったが、丁度、二人ばかり妹が出来た時分のこと、コンデンスミルクを次の妹に解いてやったり、その次の子が、母親の膝の上で、大きな乳房を独りで占領して、あいている方の乳房まで、小さな掌《て》で押えているのを見ると、あたしは涎を流して羨ましそうに眺めていたという。
二歳ぐらいの時だったのであろう、釣洋燈《つりランプ》がどうしたことでか蚊帳の上に落ちて、燃えあがったなかに、あたしは眠っていたので、てっきり焼け死んだか、でなければ大火傷《おおやけど》をしたであろうと、誰も咄嗟に思ったそうだが、気転のきいたものが、燃えている蚊帳の裾から、ふとんごと引出すと、そんな騒ぎはすこしも知らずに、そのまま眠りつづけていたので、運の好い子だといわれたときいた。
あたしの眼に、居廻りの家並などが、はっきり印象されるようになった時分の、小伝馬町、大伝馬町、人形町通り、大門《おおもん》通りといった町は、黒い蔵ばかり、田舎とちがって白壁の土蔵は、荷蔵くらいなもので、それも腰の方は黒くぬってあって、店蔵も住居の蔵も、黒くぴかぴか光った壁であった。それに、暖簾も紺、長暖簾もおなじく、屋号と、印を白く染めぬいた紺のれんで、鉄や厚い木の天水桶が店のはずれに備えつけてあって、中にはなかなか立派な、金魚や緋鯉が住んでいた。ちらちらと町に青いものが見えれば、それは大概大きな柳の木だ。奥庭には、松や榧《かや》や木※[#「木+解」、第3水準1−86−22]《もっこく》や、柏も柚《ゆず》の木も、梅も山吹も海棠もあって、風に桜の花片は飛んで来ることはあっても、外通りは堅気一色な、花の木などない大問屋町であった。
問屋が多いので、積問屋――運送店――の大きいのも、すぐ近くに二軒もあったし、荷馬車がどこかしらに繋いであるので、泣けば、お馬さんを見ましょうというか、夕方ならば、お月さんが出たと門《かど》につれだされる位、蝉の声もあんまりきかない四辺《あたり》で、そのくせ、大問屋町というのは妙に奥や裏の方は森閑としていたもので、真夏でも、妙に冷たい風のくる路のあるような、家居であった。
あたしの家も、祖父のころは呉服を大名の奥に納める家業、近所にあった祖母の兄の店が大きかったというが、その兄が死んでから、後妻が、御殿女中あがりだったので、子供に甘くて、店をつぶしてしまったし、時も丁度|御維新《ごいっしん》の、得意筋の幕府大奥や、諸大名の奥向きというところがなくなったので、祖父も店をやめてしまって、あたしが生まれたころには、もはや祖父卯兵衛は物故し、父は代言人を職としていた。
しかし、どうも、祖父の家業は、呉服御用という特種なので、もとより、問屋でもなし、店売りでもなく、注文品を、念入りにしつらえて納めるものであったようだ。反物を畳む、がっしりした小机とか、定木《じょうぎ》とか、模様ものの下絵を描いた、西の内紙で張って、絹さなだ紐をつけた、お召物たとう紙などが残っていたり、将軍さま御用の残り裂
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