して頂くのだった。夏の朝、早くから行くので、昌綱さん(先生の弟御)が大急ぎで座敷を掃いて、踏みつぎをして、上の方の本箱から、納めてある和綴《わとじ》本の大判のを出して貸してくだされた。源氏や万葉のお講義、その他の物語のこともあった。先生の奥様が、母の妹の連合いの上官で、官舎であったのかどうか、おなじ猿楽町の、大きな門のある構内に、お住居があったのと、藤島さんの一粒だねの令嬢をおかたづけになったほどなのだからと、先生については、よほどの信用があったから、母も、国文学を学びに通うことは見て見ぬふりをしてくれるようになりはしたが、許可されたのではないから、足りても足りなくってもお小遣いのうちから小額の月謝をもって行ったのだが、気まりわるくも思わなかった。朝の仕事をすますと御飯を食べている暇がなかった。神田小川町までではあるが、歩いて通わなければならない。大雨が降ると、帰りには足駄をぬいで跣足《はだし》で歩いてくるので、漸く、近所の眼がうるさくなりだした。そんな日には、大問屋の店の者は、欠伸《あくび》をしているのもあるから、あたしの育ちを、赤ん坊の時から知っている、旦那たちまでが気にしだした。
「先生ンとこのお嬢さん、どちらへおやりになっているのかと、申す者もございます」
と、父に耳打ちをする者もあるので、母が気にしだした。縁談なども、選りにもよって近所の鉄成金の家で、家じゅうで芸妓遊びをするといった派手な家からの所望を、昔を知っているから大事にするだろうとか――厳しく躾《しつ》けたのは、そんなところへやる為ではなかったであろうに、若き娘は、暮しむきの賑わしさに眩惑されて、生来の気質をあらためるかとでも思ったあやまりであったでもあろう、もとから知りあっていた両家は頻繁に往来し、道楽で勘当されていたという次男に分家支店をもたせ、あたしを貰うことにきめてしまった。
――いやだ、いやだ、いやだ。
訴えるすべもないので、あたしは枕もとの行燈を、ひと晩中に真っ黒におなじ字で書きつぶしてしまった。父に見られたら、どうにかなるという思いで一ぱいだったが、なんのこと、翌日は真っ白に張りかえられてある。どうしてよいか分からぬ憂欝に、病《わずら》いついた。長く寝てしまったが、漸く床の上に起きあがれる日、びっくらしたのは、立派な結納の品々が、運びこまれ、紋付きの人たちが、病気全快のあいさつと一緒に、祝着申しますとあたしに悦びを述べた。
だが、決心はついた。自由を得る門出《かどで》に、と、あたしは寒い戦慄のもとに、親のもとを離れる第一歩を覚悟した。昔の人が厄年だという十九歳の十二月の末に、親の家から他家へ嫁入りとなって家を出た。嫁にやられるには違いはないが、あたしは円満に親の手を離れる決心であった。だから、途中からでも逃げたい気持ちだったが、父の恥を思うと躊躇させられた。それにまた、華々しいほどの出入りの者にかこまれて、身動きも出来ない羽目となっていた。母は、さすがに、子の心は察しがつくと見えて、紙入れをもたせなかった。一銭の小遣いもわたさなかった。
以上が、明治十二年末から、二十年の末までの、東京下町の、ある家庭の、親に従順な一人の娘の、表面に現われない内面的生活争闘史である。以下は、彼女が、彼女自身で、茨を苅りながら、自分の道へと、どうにかこうにか歩き出して来た道程であるが、はじめから本道を歩きださぬ者には、よけいな道草ばかり食って、いくらも所念の道は歩いていない。振りかえって見るのも嫌なくらいである。あたしはまっしぐらに、おもてもふらず行こうとすると、きっと障碍が出来てくる宿命に生まれついてでも居るようだが、いって見れば畢竟は努力が足りないのだ。断わっておきたいのは、日に日に進歩した女子教育とは、およそ反対の歩きかたであったので、これが明治女学勃興期の少女の道と思ってもらいたくない。きわめて歪んだかたちなのだ。女流小説家として有名な、故一葉女史は、その前年明治廿八年末に物故されている。
三
そこで、生活は一変したが、婚家では困ったお嫁さんをもらったのだった。陽気な家のものたちは、あからさまに言った、水に油が交ったようだ、面白くない、みんながこんなに楽しく団欒して食事をするのに、この娘《こ》は先刻《さっき》から見ていると、一碗の飯を一粒ずつ口へはこんで、考え込みながら噛んでいる――貧乏公卿の娘でもないに、みそひともじか――お姑さんはあられげもなく、そっと書いたものを見つけると、はばかりへ持っていって捨ててしまう。
病気がちなあたしは、芝居のお供、盛り場での宴席、温泉場行きもみんな断わって留守番を望んだ。出入りの貸本屋にお金を出して新本をかわせ、内密《ないしょ》で読んで、直きにやってしまうので、彼は注文次第で、どんなむずかし
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