といえば、出来もしないことにふけって、なま半可な女《もの》になるのを、ばかに怖れたのではないかと思う。だから、あたしが、書いたり、読んだりするのは気に入らないが、ほかのことで、皆とひとしなみに、楽しみとして見聞きすることは許さないではないから、あたしがずっと小さいころ、書生が幻燈会をして近所のものに見せたりするのを、共に楽しんで見ていたように、友達たちで、三味線などひいて芝居ごっこなどしても、それは遊びとして大目に見ていた。そして、あたしどもが、幾分、新知識を得ようとするとき、玄関の大火鉢の廻りや、紫檀の大机のもとに集まって、高等学校から来る大《おお》先生に、西洋ものの小説や劇の話をきくのも、それも許した。
 大先生といっても、一高の生徒だった鵜沢総明氏が、まだ惣一といった昔のことで、はじめあたしたちは、千葉の田舎から来たほやほや中学生の書生さんの頭に、白髪《しらが》が多くあるので、黒い毛の方を抜いてしまう方が汚なくないなんぞと、頭の毛を引っつかんだりした、いけない幼女だったが、独逸人の教師の家へ寄宿して、やがて一高の生徒になると、忽ちあたしたちの大先生にあがめ、新しい話――つまり文学を聴くのに貪慾になって、それからそれからとせがんだものだった。次の妹は、趣味の共通から、共同の陣を張りはするが、もともと母の秘蔵娘であるところから、ちょろりと裁縫の時間の内幕を洩らしてしまったりする。そこで、いよいよ懲らしめのため、も一つには行儀見習い、他人の御飯を頂かないものは我儘で、将来|人《しと》が使えないという、立派な条件を言いたてに、母が大好きで、自分が、旧幕時代の大名奉公というもの、御殿女中というものにあこがれていた夢を、時代の違った時になって、娘によって実現して見ることにきめてしまった。父が、旧岡山の藩主であった池田侯の相談役であったのと、そのすこし以前にお家騒動が起りかけたりしたを処理したので、そんな縁故から頼み込んで、旧藩臣の身分のある者の娘でなければつかわなかったという、老侯夫妻のお小姓――平ったくいえば、小間使いみたいな役につけてもらうことになった。十六歳だった。
 若いものなどは皆目《かいもく》いない広い邸だった。鼻の頭の赤い老臣が、フーフーと息を吹きながら、袴の裾で長い廊下を拭くように歩いていった。それが有名な国文の学者だといった。表門の坂を俥なり馬車なりが下
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