ど》威を東国に振い、藤原|秀郷《ひでさと》朝敵|誅伐《ちゅうばつ》の計策をめぐらし、この神の加護によって将門を亡《ほろぼ》したので、この地にいたり、喬々《きょうきょう》たる杉の森に、神像を崇《あが》め祀《まつ》ったのだとある。
そこで、早のみこみに、下町は、江戸時代に埋めたてたのだから、いくら杉の森といっても、その後に植林したのだなどという誤解はなくなるわけだ。だが、稲荷さんといえば、伊勢屋稲荷に犬の糞《くそ》と、江戸の名物のようにいわれたほど、おいなりさんは江戸時代の流行《はやり》ものだが、秀郷祀るところの神さまと、どうして代ったのかというと、それにも由縁《ゆえん》はあるが、廂《ひさし》をかした稲荷の方へ、杉の森の土地をとられてしまった訳だった。
それは寛正の頃、東国|大《おおい》に旱魃《かんばつ》、太田道灌《おおたどうかん》江戸城にあって憂い、この杉の森鎮座の神にお祷《いの》りをした験《しるし》があって雨降り、百穀大に登《みの》る。依《よっ》て、そのころ、山城国稲荷山をうつして勧請《かんじょう》したというのだが、お末社が幅をきかしてしまって、道灌《どうかん》が祷ったという神の名
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