らの森であったのかもしれない。ともかく、かなりの太さの杉の木立ちも残っていた。
社の裏の方は、細い道があって、そこには玉やという貸席や、堅田という鳴物師などが住んでいる艶《なま》めかしい空気があった。ずっと前には、この辺も境内であったのであろう。それゆえか、その細道には名がなくて、小路《こうじ》を出たところの横町がいなり新道というのだった。以前《もと》の葺屋《ふきや》町、堺町の芝居小屋《さんざ》への近道なので、その時分からこの辺も、そんな柔らかい空気の濃厚な場所だったかもしれない。そしてまた、この杉の森は、享保《きょうほう》のころ、芝居でする『恋娘昔八丈《こいむすめむかしはちじょう》』や『梅雨小袖昔八丈《つゆこそでむかしはちじょう》』などの白木屋お駒――実説では大岡裁判の白子屋お熊の家のあった場所であり、お熊の家は材木商であったのだから、堀留は、深川|木場《きば》の材木堀のように、材木を溜《た》めておく置場にもなっていたのかもしれない。
こんな、あぶなっかしい地理より、ここに『江戸名所図絵』がある。これによると、杉の森稲荷社所在地は、新材木町で、社記によれば、相馬将門《そうままさか
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