と、十軒店《じっけんだな》の治郎さんの、稲荷鮨《いなりずし》が流してくるようにならなければ、おでんやや、蠑螺《さざい》の壺焼《つぼやき》やも出なかった。夜になると、人力車さえ通らない、この大店ばかりの町は、田舎のように静かで、夜が更け冴《さ》えて、足袋やさんが打つ砧《きぬた》が――股引《ももひき》や、腹掛けや、足袋地の木綿を打つ音が、タン、タン、タン、タン、カッツン、カッツンと遠くまで響き、鼈甲《べっこう》屋さんも祝月《いわいづき》が近づくので、職人を増し、灯を明るくして、カラン、カン、カン、カランカンカンと、鼈甲を合せる焼ゴテの鐶《かん》を、特長のある叩《たた》きかたで、鋭く金属の音を打ち響かせている。そんな晩、らんぷや行燈《あんどん》の下で、てんでの夜業をしていた家々の奥のものが、夜のお茶受けに、近所にはばかりながら買いにやるのだが――
 立食旦那の家内では、総出で、夜更けの屋台店に立|並《なら》んでいる。暖かげな、ねんねこばんてんへくるまって、襟巻きをして、お嬢《じょ》っちゃんも坊さんも――お内儀さんが、懐から大きな、ちりめんの、巾着《きんちゃく》を出して、ぐるぐると、巻いた
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