通りは名のごとく万治の昔、新吉原へ廓《くるわ》が移《ひ》けない前の、遊女町への道筋の名であるゆえか、大伝馬町、油町、田所町、長谷川町、富沢町と横筋にも大問屋を持つ五、六町間の一角だけがことに堅気な竪筋なので、住吉《すみよし》町、和泉《いずみ》町、浪花《なにわ》町となると、葭《よし》町の方に属し、人形町系統に包含され、柔《やわ》らいだ調子になって、向う側の角から変ってくるのが目にたっていた。そして、劃然《かくぜん》とではないが、もうそのあたりは大門通りとはよばなかった。大門通りの突当りといった。突当りの感じのするように和泉町が押出していてそれから道幅がせまくなり、ゴミゴミした裏に、松島町の長屋があったのだ。
 大門通りでは、屋台店も、表筋の道路へは遠慮して出なかった。横町の、人形町側へ出はずれかける場所に、信用されている品のよい店が秋から春まで一、二軒出た。
 屋台店の立食は、湯がえりの職人か、お店の人の内密食《ないしょぐい》、そのほかは、夜長の、夜業《よなべ》をしまったあとで時折買うものだと、大問屋町の家庭では下女たちまで、そんなふうに堅気にしこまれていたので、大所《おおどころ》の旦那
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